四川汶川大地震から三周年復旧から飛躍へ
二〇〇八年五月十二日、四川省で巨大地震が発生し、多数の人命が奪われ、被災地の生活、産業基盤は深刻な被害を受けた。震災後、中国は北京五輪、上海万博という国家的な大事業を成功させつつ、被災地の復興に全力を挙げた。震災三周年を迎え、本誌など対外メディアが所属する中国外文局の取材団は五月中旬、四川省綿陽市北川県、汶川県映秀鎮、水磨鎮などで復興振りを取材した。取材団には日、米、仏、露、西五カ国のスタッフも参加した。この特集では四月上旬に現地入りした本誌取材班のルポと合わせて、三年後の被災地の現状をお伝えする。
PART① 生まれ変わった
被災地を再訪
新北川県城の街頭市場。住民の日常用品を売っている
二〇〇八年五月十二日に発生した四川汶川大地震で受けた甚大な被害から立ち直るため、中国政府は被災地復興三年計画を立てた。二〇一一年三月末現在で、四川省総合復興計画に盛り込まれた二万九千六百九十二項目のうち、すでに九二·四%を達成し、今年の九月末までには、残りの再建作業を完了させる見込みだ。被災地復興計画の完成が近づくにつれ、被災した住民の生活や企業の生産活動もしだいに安定し、それぞれ前より大幅にレベルが向上した。以下、本誌取材班が「被災地のいま」を現地から報告する。
PART 0 忘れないために
島影均 沈暁寧=文
人類史に残る巨大な地震との戦いを後世に伝えるために、中国では四川汶川大地震の生々しい爪痕を何カ所か残そうとしている。街全体をそのまま残しているケースや一部の廃墟を保存し、周辺を公園にしているところもあり、態様はさまざまだが、国土の狭い日本はもとより世界的に見ても、「現代の地震遺跡」は珍しい。
悲劇と衝撃を無言のうちに物語る無残な廃墟は、後世の人々に先人の地震との戦いを伝え、また全人類の大自然に対する畏敬を忘れてはならないという戒めになるだろう。
三年前にタイムスリップ
谷あいにある旧北川県城は震災の遺跡として、街全体が保存されている。
祖先を祭る伝統的な祭日·清明節の直前、本誌の取材班が慰霊のため特別開放された旧県城に入った。一歩一歩、廃墟の中を歩くうちに、時の流れを遡るような錯覚を覚えた。目に入る倒壊した家屋や壊れたビル、傾いた壁が増えるにつれ、「あの時」に近づいたように感じた。三年の歳月を忘れさせるように、ここのすべてが当時の様子をはっきりと伝えていた。
ベランダに干されていた服は灰まみれになり、風に揺らいでいた。窓辺に置かれた盆栽は、かつて満開だったに違いないが枯れてしまっていた。レストランの看板はまだ読み取れたが、店内は、テーブルやイス、カウンターがめちゃくちゃに散乱し、ばらばらに倒れ、半壊状態だった。鳥が飛んでいなかっただけでなく、生き物の気配をまるで感じられなかった。ただ、屋上に無秩序に生えていた雑草と数本の樹木のわずかな新緑が、春の息吹きを誇示していた。
午後の日差しは暖かかったが、旧県城のひっそりとして重苦しい雰囲気に、息が詰まった。二、三人とすれ違ったが、だれも無言だった。規定で、旧北川県の住民だけが、旧県城に入り、震災で亡くなった家族や親戚の霊を弔うことができた。あまり遠くないところから、時折り、爆竹の音が聞こえ、どこかで遺族が弔いをしていることが分かった。危険地域を示す鉄条網や廃墟のがれきの上には、黄色や白の菊が手向けられていた。コンクリート製の焼香台の前で、人々は線香を焚き、ろうそくに火を付け、紙銭を燃やし、杯に酒を注ぎ、菓子や果物を並べ霊を慰めていた。
その中のひとり、三十代の女性の張さんは、弟妹を伴い、ある倒壊したアパートに向かって、静かに祈っていた。彼女の話によると、両親がここで地震に遭い、亡くなったので、毎年、ここに来て慰霊の祈りをしているそうだ。その日は、残された家族はみんな無事で、まもなく新県城に引っ越すので、安心してくださいと両親に伝えたいという。
見渡す限り震災の傷跡が目に入る旧県城はずっと存在していくだろう。城内の倒壊危険家屋は、すべて頑丈な鉄骨の支柱で支えられ、中国語だけでなく英語、日本語、韓国語などで震災の被害を説明する看板が立てられていた。
倒壊免れた校舎も保存
彭州市白鹿鎮には倒壊を免れた九年制学校の校舎が残されている。山の斜面に平行に建てられた二棟の校舎は窓ガラスは全部割れ、壁にひび割れが入っているが、かろうじてほぼ垂直に立っている。説明によると、山側の校舎は三㍍もせり上がったそうだ。教師、生徒に犠牲者は出たが、大多数は校舎から逃げ出すことができたという。もし、校舎が全壊していたら……と想像すると背筋がざわっとした。
谷川の校舎の前には、校舎から逃げる生徒たちの数十の群像が設置されていた。走っている姿勢の生徒たちの表情には恐怖心がにじみ出ている。
また、什邡穿心店地震遺跡公園は半壊したレンガ造りの建物を残し、その後方に広々とした公園を造成している。地震の経験を読んだ詩が壁画風に刻まれ、慰霊塔がそびえる広場には廃墟を象徴する大きな鉄骨のモチーフが設置されていた。
PART① 新しい街 北川、水磨鎮、白鹿鎮、成都
島影均 沈暁寧 王衆一=文
四川省北部の山地に位置する北川県の県城は、千四百年余の歴史を持つ。治水の王·禹の故郷と言われる。漢族、チャン(羌)族の住民が代々生活し、貴重な歴史的、文化的な財産は、あの日突如、跡形もなく破壊されてしまった。震災後、地質学専門家は北川県は居住に適していないという判断を示した。しかし、政府も住民も北川を地図から消滅させる考えはなかった。そこで「新たな北川県」が計画され、新しい街が建設された。
新北川県城は唯一の移転再建であり、国家指導者はじめ各界の関心を呼んでいる。旧北川県城の人口は三万五千人だったが、新県城は計画段階で七万人と想定し、五年以内に五万人を超える見込みだ。また、新県城の人口構成は旧県城とは大きく変わる。旧住民のほかに周辺農民の転入を促進し、また、経済の活性化、産業のレベルアップをはかるために、他都市からの転入者の比率を高め、一流の都市の建設を目指している。全く新しい都市に生まれ変わる新県城の管理体制について、韓貴均北川チャン族自治県宣伝部長は次のように説明した。「農民が一晩のうちに市民に変わるわけですから、彼らの資質を高め、新しい技能を身に付けてもらうことが主要な課題です。固有の習慣と都市管理のギャップを埋めるために、少しずつ指導し、適応してもらわなければなりません。都市管理局を新設し、全国からエキスパートを集めたいと思います」
あふれるチャン族文化
取材班の車が新北川鎮に入ると、真新しい住宅街が目に飛び込んできた。六階建てのアパートの外観はみな同じだ。灰色の外壁は四隅を褐色の木柱で縁取りされ、屋根は褐色の板で葺かれ、窓枠も褐色で統一され、鮮やかなコントラストに目を奪われた。車の窓から見える街路灯、交通標識、道路案内、ゴミ箱も褐色の木材風に塗装されていた。住宅地や商店街の入り口には羊の頭蓋骨の模型が飾られたアーチがある。ここがチャン族の文化が色濃く伝わる鎮だということを象徴している。
「一対一支援」制度の成果
新県城の建設予定地は七平方㌔で七万人の居住が可能だ。建設総投資額は百十億元で既に九五%以上が完成している。このうち、「一対一支援」制度で、新北川を受け持つ山東省は四十六億元を負担する。二〇〇九年に着工してから、三万人余の建設労働者が山東省から入り、わずか一年で、三千六百棟の中低所得者向けの住宅、六十三本の道路、四本の橋を竣工させた。新北川の建設に伴って、山東省は一·四平方㌔の北川·山東工業パークと農業·産業モデルパーク展示園の造成を計画している。また、同省の企業は総額十六億元を新北川の電子情報事業、新型建築資材、機械製造、食品·薬品加工などの各分野に投資する考えで、「一対一支援」から「一対一提携」へ、長期的に協力していく方針だ。
被災者を思いやり離農
付増友(五九)さんは、四川省安県黄土鎮で先祖代々引き継いできた農業に従事していた。二千平方㍍の土地に水稲やショウガ、スイカを植え、これらの農産物によって、毎年一万元の収入を得ることができた。家族四人の中で、彼と奥さんは耕作に従事し、長女は安県の電信会社に勤め、次女は江蘇省の紡績工場でアルバイトをしていた。あまり豊かではないが、安定した楽しい生活を送っていた。
付さん一家は幸いに震災に遭わず、たいした被害もなかった。しかし、彼の生活にも天地を覆したような変化が起きた。「新北川建設のための土地収用の対象とされました」と付さん。気がかりと名残は尽きなかったが、帰るべき家もない北川の多くの被災者を見ているうちに、とうとう周りの村人と一緒に離農して、郷里を立ち退くことを決意した。
補償金はもらったが…
立ち退き補償の基準に基づいて、付さんは鎮政府から約二十万元の補償金を支給され、奥さんと一緒に近くの安昌鎮で借家暮らし始めた。「毎年、家賃だけで一万元かかり、ほかに収入は無かったので、このままでは絶対だめだと思いました」と、当時を振り返って話してくれた。二〇〇九年二月、友人に薦められ、付さんは北川県プロジェクト建設指揮部の門衛となった。まじめで正直な人柄と、電気回路の補修技術のおかげで、物品の仕入れと回路補修の仕事も兼ね、月給は千三百元に上がった。
二〇一〇年一月、新北川鎮に中低所得者向けの住宅の一部が完成した。立ち退き世帯の付さんは、無償で百四十平方㍍のアパートを手に入れることができた。寝室は五室、トイレ二カ所、キッチンのほかに、三十平方㍍ほどの客間もある。広いベランダから、かなたの山を眺めながら、付さんは「農民にはもう戻れないという現実には、確かになじめません。しかし、後悔はしていませんよ」と、微笑んだ。付さんのような「里帰り入居者」が他にも大勢いる。
三年間で「新たな天府」
四川省は物産の豊かさや気候の心地よさから、古くから「天府の国」と称えられている。省都·成都市の歴史は古く、文化的な深みのある街で、おいしい食べ物、美しい風景、快適な生活環境は人々を惹きつけてきた。しかし、大地震に見舞われ、市内で四千三百七人が死亡、二百八十二万人が被災し、管轄下の都江堰市にある千年以上の歴史を持つ二王廟などの古跡も破壊された。
復興事業で、成都市政府は単なる原状回復ではなく、長期的な視野に立ち、「市民が満足でき、改革によって新機軸を打ち出す」という基本方針に基づいて、科学的で周到な計画を立て、実行に移した。三年かけて、復興事業はほぼ完成した。
都市部と同じサービス
成都市管轄の彭州市磁峰鎮鹿坪村の「鹿鳴荷畔」は住宅復興プロジェクトのモデルとして最初に建設された。農家の庭はそれぞれまちまちで趣があるが、インフラや生活施設はどの家も完備されている。観賞用のハス池のほとりに、農村風の旅館が軒を連ねている。生産基地では、食用キノコ、漢方薬の材料、キウイフルーツなどの換金作物が栽培されている。
農村部の被災者が都市部の人と同じ公共施設やサービスを利用できるように、都市部の基準に基づいて、水道、電気、ガス、光ファイバー通信、ブロードバンドなどの公共施設を農村の新しいコミュニティーに導入した。「復興活動によって、私たちの生活レベルは少なくとも二十年先の水準に進んだと思いますね」と、鹿坪村の村人、高玉華さんは感慨深そうに話してくれた。
被災地の校舎建設支援
震災後、上海市で二十年以上教師を務めてきた沈翠英さんは、「終いの住処」として用意した住宅を売り、被災地の子どもたちが安心して勉強できる校舎の建設費用に振り向けることにした。競売によって得た四百五十万元を上海市の「一対一支援」対象の都江堰市に寄付し、校舎の建設に使われることになった。沈さんはネットユーザーたちに「最も立派な退職女性教師」だと呼ばれるようなった。
二〇一一年三月末時点で、成都市の三千百四十八件の復興プロジェクトのうち、二千九百五十六件が完成し、投資総額は八百三十一億八千万元に達した。共産党成都市委員会副書記·市長の葛紅林氏は「この三年の間に、成都は巨大震災と国際金融危機という二重の不利な要素の影響をしのぎ、経済、社会の安定的かつ迅速な発展を実現した。被災地の経済、社会は飛躍的な発展を遂げ、災害後の復興は決定的な勝利を獲得した」と、胸を張った。
観光に転進した水磨鎮
水磨鎮で取材団のバスから降りると、観光客の人並みに驚かされた。震源からわずか五十㌔で、山河が崩れ、チベット族、チャン族、漢族、回族が住む山里は、壊滅的な被害を受けた。だが、再建に際して、従来の農業、工業中心の産業構造から一転して、風光明媚な土地柄を生かして、観光の街として、発展することにした。観光業への転進を決意させたもうひとつの理由はここがチベット族とチャン族が共存している自治州で両民族の文化、伝統に触れることができるからだった。
また、水磨鎮のチャン族集落は北京大学の専門家が設計し、広東省仏山市の「一対一支援」で質の高いコミュニティーとして造成された。復興振りは国際的にも高く評価され、「ベスト災害後復興賞」も受賞している。震災後、かつて老人村だった禅寿老街は住居兼用の土産物屋や食べ物屋が軒を連ねる観光通りとして大変身を遂げている。客引きの声が響き、そろいの帽子をかぶった団体客が歩き、まるで日本の温泉街を思わせる賑わいで、活気に満ちていた。
白鹿鎮にフランスの街
震災後、彭州市白鹿鎮も積極的に産業構造を変え「豊かな自然と豊かな住民、観光で街おこし」をモットーに掲げ、復興に取り組んできた。その目玉が興鹿街に登場したヨーロッパ風の通りだ。かつてフランスの宣教師が教会をつくったことからフランスとは縁があったが、テーマパークを彷彿させる観光資源づくりを目指しているようだ。なだらかな坂道の両側に西洋風レストラン、喫茶店、写真館が並んでいる。青い尖塔、白壁の洋館、黄色を基調にしたブティックで旅情をかきたてようというわけだ。ロマンティックな雰囲気をつくり、若者にここで結婚式をしてもらおうという狙いもあるそうだ。
喫茶店に入ってみた。コーヒーの香りを楽しみながら、通りを見ると、真っ白い鹿の像が観光客を待っている。若い店主に声を掛けると「フランスに行ったことはありませんが、雰囲気を出せるように研究しています」と、笑顔で新しい街づくりに意欲を示していた。
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