四川汶川大地震から三周年復旧から飛躍へ

2023-05-29 14:34:00

 

PART⑦ 恩返しの気持ち

単濤=文

東日本大震災が発生すると、すでに郷土を再建し、新しい生活を始めた四川汶川大地震の被災者はじめ四川省の人々は、三年前、日本から差し伸べられた援助の手を思い出し、直ちに恩返しの気持ちを行動に移した。かつて激震に直撃された汶川、綿陽、成都、北川、阿壩、徳陽などで、各界の人々が募金活動に積極的に取り組み、恩返しの気持ちと深い同情を日本に伝えた。

一日も早く郷土再建を

三月二十日、汶川県威州鎮の董天福さんは、県赤十字会が東日本大震災のために募金活動を始めたことを聞くと、直ぐに募金の場所に駆けつけた。董さんは「テレビで日本の被災地の悲惨な映像を見て、三年前の悲惨な日々を思い出しました。ひとごとではありませんからね。あの時の救援活動、復興に際して、各地から多大な援助をいただきました。昨年十月に家を新築し、今は幸せな日々を送っています。日本の被災者のみなさんも一日も早く郷土の再建に立ち上がってほしい」と、語った。

綿陽市赤十字会は募金の便宜を図るために、銀行振り込み、現金受け付け、郵便為替の三種類のチャンネルを設けた。三月二十日までに、綿陽市の各級赤十字会に集まった東日本大震災への義援金は二万九百元に達した。中には、身体を支え合いながら五千元を募金箱に入れた七十歳の夫婦もいた。遊仙区忠興鎮博愛衛生院(保健センター)は、従業員全員が寄付した義援金を区の赤十字会に届けた。四川汶川大地震の時に、日本赤十字社から義援金を贈られたことに対する恩返しだった。

募金箱の前には長い列

一方、成都市赤十字会は直ちにホームページで義援金専用の銀行口座番号とホットライン番号を掲載した。三月二十一日午後、多くの市民が寒風をついて、赤十字会を訪れ、義援金を寄付した。同日午後六時までに、義援金は二十六万元を超えた。

三年前、日本赤十字社は阿壩州へ義援金と救援物資を送った。さらに金川安寧と黒水紅岩の学校再建も支援した。今回、日本が大きな災難に見舞われると、かつて援助を受けた学校の教師と生徒たちは心を痛めた。三月二十二日、両校の教師と生徒たちは募金箱の前に長い列をつくった。生徒たちは倹約して貯めたお金を募金箱に入れ、また、教師たちも真心を込めて寄付した。そうした貴重なお金が一元、五元、十元、百元と集まり、あっという間に全部で三千六百六十元一角になった。真の友情をこめた義援金は中国西南の雪深い高原から、遥か数千㌔も離れた日本へ届けられた。

「ひとごとではない」

三月二十四日、中国赤十字会四川分会の文家碧常務副会長と何旅章副会長は、四川省の人々の日本赤十字社と被災者に対するお見舞いの気持ちを伝えてほしいと、四川省各級の赤十字会で寄付した百万元と慰問の手紙を在重慶日本総領事館に届けた。

義援金伝達式で、文女史は自然災害との戦いは人類の共同の責任だ、と語った。東日本大震災を知った四川省の人々は、恩返しの気持ちを持ち続けているだけに「ひとごとではない」というのが実感だった。成都、汶川、北川などの日本赤十字社が援助する復興プロジェクトの現場で、市内のコミュニティーで、病院、学校、コミュニティー、村、企業·団体など各界の人々が、日本の被災民へ義援金を寄付した。義援金を通じて、恩返しの気持ちと真の友情を表わしている。

中国赤十字会四川分会常務副会長文家碧(中央)は、四川省民衆が「3·11」大震災救済のために寄付された100万元の義援金を瀬野清水在重慶日本総領事(右)に渡した(写真提供·四川省赤十字会)
中国赤十字会四川分会常務副会長文家碧(中央)は、四川省民衆が「3·11」大震災救済のために寄付された100万元の義援金を瀬野清水在重慶日本総領事(右)に渡した(写真提供·四川省赤十字会)
「3·11」大震災の被災民のために積極的に募金をする汶川県の人々(写真提供·四川省赤十字会)
「3·11」大震災の被災民のために積極的に募金をする汶川県の人々(写真提供·四川省赤十字会)
四川省赤十字会へ行き、東日本大震災の被災民のために寄付をする成都市民(写真提供·四川省赤十字会)
四川省赤十字会へ行き、東日本大震災の被災民のために寄付をする成都市民(写真提供·四川省赤十字会)

 

PART⑧ 平素の交流が重要

中国救援隊連絡調整官·徐志忠氏に聞く

東日本大震災発生後、中国国際救援隊は岩手県大船渡市に入り、直ちに救援活動に加わった。十五人編成の救援隊は八日間、生存者の発見と救出に全力を投入した。救援隊の副隊長として、被災地に赴き、連絡調整官を務めた徐志忠·中国地震局国際協力局双務協力処処長に聞いた。

——救援活動の様子と従来の海外救援活動との違いをお話しください。

徐志忠氏(以下、徐) 中国地震局国際協力局の主な任務は海外で発生した大地震に対し迅速に対応し、国際救援活動を手配することです。今回も地震発生から十数分後、収集した情報を上級機関に報告し、救援隊派遣の準備も素早く整えました。四川汶川大地震の発生直後に、日本政府は速やかに救援隊を派遣してくれましたので、われわれも一日も早く被災地に入りたいと思いました。海外での救援活動は五回目ですが、岩手県の被災地は凄惨を極め、今までにないほど震撼させられました。津波によって押しつぶされた家屋の中で、片隅に縮こまって亡くなっていたお年寄りの遺体を発見した時は、全員が大きな衝撃を受けました。

——どのような困難に直面しましたか?忘れられないことは?

徐 最大の困難は寒さでした。ダウンジャケットを着たまま寝袋に入らなければ眠れませんでした。四足の靴下を重ねて穿いたこともありました。もう一つは、生活用水の不足でした。節水のため、食事も少量の水で加熱できる食品だけ食べていました。忘れられないのは、ユニフォーム姿の隊員たちがスーパーで飲料水を買おうとした時、店の人がどうしても代金を受け取ろうとしなかったことですね。また、慰問に訪れた戸田公明·大船渡市長は「美しい郷土の再建を信じて下さい。大船渡は極上アワビで有名です。再建後、是非また来てください。お礼にご馳走します」と、約束してくれました。

——両国政府は震災に際して、救援隊を他国に先駆けて相互に派遣しましたが、この熱意の原動力は何でしょうか?

徐 中国地震局は東京大学地震研究所、京都大学防災研究所などの機構と交流しているほか、日本国際協力機構(JICA)と「中日協力地震緊急救援能力強化計画プロジェクト」を共催しています。また、多くの日本人専門家と私たちと深い友情で結ばれています。その中の一人、長沢享さんは中国救援隊の来日を知ると、わざわざ東京から駆けつけてくれましたよ。平穏な時に相互交流を行い、災害に遭遇した時にはお互いに援助の手を差し伸べるのは、両国の災害に対する緊急救援能力を引き上げるほか、両国民の間の友好関係を促進する上でも意義深いと思います。(聞き手=単濤)

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