四川汶川大地震から三周年復旧から飛躍へ
PART⑥ー1 コリーさんの感想 ゆき届いた新北川県城
チャイナ·ネット社 コリー·クーパー(米国)=文
旧県城のバスセンタービルはがれきの山になっていた。ビルが全壊し、四人が犠牲になった。県農業発展銀行ビルは骨組みだけが残ったが、同県党委員会はここで会議を開き、救援計画を決めた。
旧北川県城は地震記念館として整備され、また犠牲者に哀悼の意を捧げる場所になっていた。案内の担当者によると、震災を生き延びた人の来訪は少ないそうだ。苦痛の記憶をたどりたくないからだろう。ただ、「三周年の当日は家族や友人知人の慰霊のために来ていました」と、付け加えた。
ガイドは地震発生時の建築物の位置と構造が重要だ、と説明していた。例として、二棟のビルを示しながら、それぞれ道路の両側に建っていたが、一棟は完全に崩壊し、がれきとなり、向かい側のビルは被害が少なく、今でも残っている、と説明した。
新北川県城の建設に当たって、この教訓を十分に生かした。新県城は地理的条件がよく、周辺に地滑りが起きやすい高山はなく、旧県城のように壊滅的な打撃を被ることはなく、都市計画上、災害対策が講じやすいそうだ。ガイドはM8の地震でもしのげる、と説明していた。
取材団は北川中学の崩壊跡地で犠牲になった教師、生徒への黙祷を捧げた。谷あいに建っていた中学校の廃墟を見ていると、地震が起きる前に校庭で、楽しそうに遊びまわる子どもたちの情景が脳裏に浮かんできた。あの時、校舎の裏山が崩れ、巨大な岩石が校庭に飛び込んできたのだろう。校庭には地震前の面影は残っておらず、廃墟の上に中国国旗がはためき、一組の夫婦ががれきの上に黒い横長の布を掛けていた。亡くなった子どもを偲んでいるのだろう。
北川県は山東省の「一対一支援」で復興事業が進められ、チャン族風致地区の再建も同省の支援で行われ、チャン族が震災に直面して示した偉大な精神を記念している。
この地区のシンボルは高い四角の塔で周囲を長方形の建物が取り巻くチャン族独特の建築様式だ。多くの北川住民がこの地区の博物館、飲食店で働き、中には道端でお土産を売っている人もいる。案内の担当者によると、七十世帯の住民がこの風致地区の収入で生活しているそうだ。
この二年の再建の間に、北川県に大きな変化が起きた。県城は広々として安全で、道路も幅員が広く平坦に改修された。城内は四区に分けられ、住宅地区、養老院、病院のほかに、商業街があり、小中高の教育施設が整備された地区もある。
PART⑥ー2 リュータミューラさんの感想 四民族が暮らす水磨鎮
『人民画報』 リュータミューラ·クバリェバ(ロシア)=文
私たち取材団は震災後の再建を実現した水磨鎮を訪れた。地震によって全壊したが、すでに復興し、小中学校のキャンパス、専門教育機関、近代化した設備が整った病院が建てられた。二階建て、三階建ての建築はこの新しい町に独特な美しさをもたらした。高級リゾートにいるような気分にさせてくれた。
ここにチャン族、チベット族、回族、漢族の四民族が生活している。紀元前一世紀の史料は「チャン族はチベット系の民族で、チャン語はチベット語派に属す」と記録している。四川省の多くの地域では、チャン族は同族が集まって集団生活をしているが、水磨鎮ではチベット族、回族と一緒に暮らしている。両民族の古い文化や伝統をできる限りに保護するために、阿壩チベット族チャン族自治州が成立された。
信仰にもそれぞれ特色がある。たとえば、チャン族は大山や白い石、羊の角を崇拝し、チベット族の信仰はラマ教、回族はイスラム教を信奉する。
地震後、被災者にとって不可欠なものは食と住で、次に考えるのは生計の源だ。水磨鎮の人々は観光事業を展開することにし、中国最高級のAAAA級観光地にすることができた。同地域はまた国際住環境フォーラムから「ベスト災害後復興賞」を受賞した。自治州財政の八八·八%は工業、一〇%は農業によりまかなわれ、観光事業の収入はまだ七%に過ぎないが、その未来には無限の可能性に満ちている。
ここの自然環境は非常に美しい。環境保護のために、ゴミ処理場が建てられ、水のリサイクルも行われている。北京大学は同自治州の震災後再建活動を支援してきた。計画によると、観光業のほかに、未来はさらに文化·教育産業を展開する。水磨鎮は博物館、観光センター、コンベンションセンターが建設され、古い市街地で四川省西部少数民族スタイルの建築が建てられた。ずらりと並ぶチベット族の建築はラサ市のポタラ宮を彷彿させる。隣に有名なチャン族の塔、漢族や回族の民家もたくさんある。
PART⑥ー3 ホセさんの感想 映秀鎮復元に十四億元
『チャイナ·トゥデー』社 ホセ·ゴルド(スペイン)=文
大地震の震央だった映秀鎮に行く道は、うねうねと川沿いをたどり、河岸には地震の爪痕がくっきり残されていた。現在の住民は六千人。来てみてうれしい発見は、かつて完全に破壊された街がすっかり修復され、すべての住宅が伝統的な飾り付けを施され、周囲の自然に溶け込み一体になっていることだった。再建費用は十四億元だった。
新しい街の傍らに見る人を慄然とさせる地震の廃墟が残され、震災で亡くなった人々を思い、また、四川人民が鉄の意志を持って地震と戦ったことを伝えている。こうした精神力と全国人民の支持、地元の党員、幹部の献身的な精神によって、さらに、海外の援助によって、映秀はこれからも前進していくだろう。
被災地の中で映秀のように全く新たに建設されたところは多い。地震の被害が最も大きかった北川県城は全く新しい街に生まれ変わっている。街全体の設計はよくできており、独特の風格を持っている。工業パークと新しい中学校が建設され、既に五千人を越える学生が通学している。他に伝統文化を維持するための地区も設けられている。設計者の先見の明がうかがわれるのは、持続的な経済発展と一体になっているだけでなく、伝統と自然環境も尊重している。四川省で被災した三十九県のGDPの成長率は四川省平均を一ポイント上回っている。同時に、環境保護の面でも、未来に対して楽観的な見方が強い。
この三年で、被災地は確実な、深く根を張った、持続可能な復興の基礎を築いた。地震で受けた精神的な傷跡は残り、がれきも残っているが、復興に対する願望と、希望も確かに存在している。
現在、必要なのは時機を失せずに、高く掲げた腕を下ろさず、未来のもっと素晴らしい可能性を忘れないことだろう。四川人民の堅忍不抜の精神は美しい未来を保証している。
未来は彼らの掌中にある。
PART⑥ー4 アントワーヌさんの感想 「綿竹年画」を観光資源
『北京週報』社 アントワーヌ·ロゼ(フランス)=文
震災が被災地に与えた最大の影響は、各市、県、鎮が、地震の危険のある地域は別として、震災後の再建に際して、どのような経済発展モデルを選択するかに対してだった。特に注意を払わなければならないのは、マクロ経済の観点で推進されている「西部大開発」との融合だ。例えば、遼寧省の自動車メーカーが北川県に組み立て工場を建設したのも、一致団結して災害に立ち向かおうと情熱だけにとどまらない意義を持っている。実際、こうした企業進出は沿海地区よりも労働力が安く、同時に地元市場の開拓もできるのが理由だろう。住民の立場から言えば、就業機会が増え、また、沿海地区に出稼ぎに出かけていた人々が故郷に戻ることもできる。興味があるのはこうした現象が、西部への産業移転とうまく合致していることだ。
われわれ取材団が訪れた多くの地方が震災後の再建の際に、観光業を主とした産業構造によって出口を見いだそうとしていることが分かった。九寨溝、臥龍自然保護区に近い水磨鎮は震災前は重要な工業基地だった。人々は主にアルミニューム、コバルトの採鉱に携わり、鎮の近くには多数のセメント工場も立地していた。震災後、成都市は水磨鎮に工場用地を提供し、以前の工場を再建する支援に乗り出した。この施策によって、水磨鎮は六十数工場によってかつての生産額を持続でき、地元政府によると、管内のGDPの八〇%を占めるそうだ。同時に、潜在的に持っていた観光事業の可能性を追求することにした。住民の董立徳さんは工場移転によって、生活環境が改善されたことをわれわれ取材団に説明し「以前、ここの大気と水質の汚染はひどかったのですが、現在の生活環境は以前に比べてぐんとよくなりましたよ」と、語っていた。
綿竹市の年画村も同じように「綿竹年画」を観光資源として活用する道を選び、当地特産の年画を広めることにした。地元政府と再建の主要な支援都市の無錫市の助成を受けて小規模の年画製作工房を建設した。この工房は既に地元住民五十人を採用し、また、多くの観光客を引き付ける目玉になっている。
上5页上一页7下一页 |