屈原・賈誼ゆかりの名城

2021-08-18 10:20:07

  

橘子洲は湘江に横たわっており、高層ビルが林立する川の東側には長沙古城の遺跡があり、岳麓山は川の西側にある。橘子洲には高さ32㍍の青年毛沢東像と、32歳の毛沢東が長沙に戻ってきたときに書いた詩『沁園春・長沙』の石碑がある

  湖南省は三方を山に囲まれ、北部は平原で、湖沼が広がっている。南から北へと全域を貫く湘江は、洞庭湖に注ぎ、長江と合流している。長沙は湘江の下流域にある。町を貫いて流れる湘江は長沙を二分し、「山水洲城」という独特な景観を形成している。

 湘江の西岸には岳麓山があり、南北5㌔にわたる橘子洲が川の中央に横たわり、川の東岸は最初期の市街地である。岳麓山の山脈は南岳・衡山に属し、山中には古樹名木や名士の墓が数多くある。山麓には中国古代の四大書院の一つに数えられる岳麓書院。岳麓山と橘子洲は長沙で最も知られる観光スポットとなっている。

岳麓山の上にある愛晩亭。毛沢東は湖南第一師範で学んでいた頃、学友たちとよくここに集まり、革命の真理について討論した(写真提供・岳麓山景勝地麓山区管理処)

  長沙の人々の血液には「湘江の水」が流れてるという。阻まれることなく流れ続ける湘江は、高く険しい山々の間に耕作に適した「魚米の里」を生み出しただけでなく、同地の人々を勇敢・尚武、パイオニア精神を持つ血気盛んな性格にした。歴代の名士が残した足跡もまたこの土地に独特な文化的遺伝子を注入した。

 秦が六国を統一する前、長沙は楚国に属しており、楚国の「辺境の地」だった。楚国の詩人・屈原はかつてこの地に流され、「人生の多難を悲しむ」長詩『離騒』を書いた。秦国が楚国の王都を攻め落とすと、屈原は汨羅江に身を投げ、国家に殉じた。後に同地の人々は彼を記念するため、端午節にちまきを作り、ドラゴンボートレースを行うようになった。屈原の天下を憂う祖国を思う気持ちは、これらの風習と共にずっと伝えられてきている。

 100年余り後、国を憂い民を憂う人物がもう一人長沙に流された。前漢の有名な政治家・文学者の賈誼である。賈誼は長沙王の太傅(太子の教師)となり、今の旧市街の太平街一帯に居を構えた。屈原と自身の境遇が似ていると感じた賈誼は、後世よく知られることとなる『弔屈原賦』を書いた。在任期間中、賈誼の民本思想と重農思想は長沙の文化と経済の発展に大きな影響を与えた。

 約1000年後の唐代には、詩人・杜甫が長沙に流れ着き、湘江沿いにある「江閣」で暮らした。賈誼の旧居を訪れたとき、杜甫は賈太傅が掘った井戸のそばで「長く懐う 賈傅の井依然たるを」という詩を詠んだ。そうしてこの井戸は後に「長懐井」と呼ばれるようになった。



賈誼井は長懐井ともいう。賈誼旧居にもとからあり、すでに2000年以上の歴史がある(写真・王漢平/人民中国)

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