地下に埋もれていた「奇跡」

2021-08-18 10:49:42

  

天心閣は長沙古城の城楼で、その下の城壁は古城の南東角に当たり、紀元前202年に創建された。現在の城壁は明代に造られたもの

  長沙はもともと荒涼とした土地だったが、徐々に町として栄えるようになり、「楚漢の名城、屈賈の里」という美称で世間に知られるようになった。実際、はっきりした根拠のある長沙地域の歴史は、商・周時代までさかのぼることができる。

 長沙市管轄下の寧郷市の炭河里遺跡からは、商代末期から西周早期の青銅器が大量に出土し、この地がかつて西周の某国の首都だったことが証明された。中でも商代末期の青銅製礼器「四羊方尊」は造形が精巧で美しく、制作技術が非常に高く、中国の歴史の教科書にも掲載されている。


精巧で美しい青銅器「四羊方尊」は商代末期の祭祀用品で、長沙・寧郷で出土した

 戦国時代後期、強大な楚国は秦国に滅ぼされ、始皇帝はここに長沙郡を設置した。202年、漢王朝開国の功臣である呉芮は長沙王に封じられて、長沙国を建てた。そのときから長沙城の場所は変わったことがない。発掘調査によれば、旧市街の中心地域は一貫して現在の太平街や五一広場、走馬楼のあたりだという。その地下には、歴代王朝によって蓄積された文化の宝が埋まっている。

 そして中でも国内外を最も震撼させた考古学的発見といえば、馬王堆漢墓の発見である。これは前漢の長沙国の丞相・利蒼とその家族の墓だ。出土した貴重な文化財は3000点余りに達し、世界における20世紀最大の考古学的発見の一つとなった。


馬王堆漢墓で出土した素紗襌衣はセミの羽のように薄く、雲のように軽く、中国古代絹織物工芸の傑作であり、湖南地域の楚漢文化の精華でもある

 長沙簡牘博物館には走馬楼一帯で出土した前漢の簡牘(竹簡と木牘)2万点余りと三国時代の呉簡14万点余りが所蔵されている。三国時代、長沙は東呉・孫氏が台頭した場所だった。当時は主に、竹や木で作られた簡牘に文字が書かれた。これらの簡牘は後世の人々が当時の社会生活を知る重要な手掛かりとなっている。


天心閣の向かいにある長沙簡牘博物館に収蔵されている三国時代の呉簡。長沙は簡牘の出土が中国で最も多い町だ


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