今日に続く1000年の学府
歴史が長沙に残したものは、連綿と続く地下の文化財のほかに、現在まで伝承されてきた1000年の学府もある。976年、北宋の潭州太守・朱洞は岳麓山の山裾に岳麓書院を創設した。南宋の理学の宗師である朱熹と張栻がここで学術研究を行ったことは、歴史上「朱張会講」と言われている。岳麓書院は江東の城南書院と共に湖湘文化の「経世致用、兼容併蓄」という思想の源となった。
清代末期、中国で2000年以上続いた封建制が崩壊しようとしていた。多くの岳麓の学生が民族存亡の危機に立ち向かい、救国・救民の重任を負った。岳麓書院出身の政治家・曽国藩は「経世致用」の思想の影響を深く受け、李鴻章や張之洞、同じく岳麓出身の長沙人・左宗棠と共に「晩清中興の四大名臣」と称されている。彼らは洋務運動を始めて、近代化への第一歩を踏み出したが、最終的に中国を救うことはできなかった。
岳麓書院は1000年以上も続いており、軍事や政治に精通した人材を大勢輩出した。現在は湖南大学の一部分となっている(写真・王漢平/人民中国)
岳麓書院と川を隔てて建つ城南書院は、張栻が1161年に創設した。中国民主革命の先駆者である黄興ら進歩的な愛国の志士たちがかつてここで学んだ。黄興は前後して長沙で華興会を、日本で中国同盟会を創立し、孫文と共に辛亥革命を指導した。現在、長沙の黄興路には、黄興の彫像が建っている。
1903年、城南書院は湖南師範館と改名し、辛亥革命後には湖南第一師範学校と改名した。毛沢東はかつてここで学び、その間、蔡和森など気の合う校友と一緒に岳麓山に上り、橘子洲に立って、人生や国家について語り合った。第一師範は多くの革命の先人たちを輩出した。1920年、毛沢東は第一師範付属小学校の校長になり、ここで長沙出身の楊開慧と結婚し、二人は手を取り合って革命活動を展開した。数年後、長沙に戻った毛沢東は思い出の地を再び訪れ、人口に膾炙する『沁園春・長沙』を書き、国家の命運に対する革命青年の感慨と旧中国の改造を目指す大志を表現した。
毛沢東がかつて学んだことのある湖南第一師範。その前身は城南書院である(写真・陳海良)
新中国の開国元勲・劉少奇、中華人民共和国国歌の作詞者・田漢も長沙生まれだ。「中国近代史の半分は湖南人によって書かれている」という言い方がある。その中には長沙と切っても切れない縁がある人も多い。彼らは長沙人の強かな性格と祖国を思う心を継承し、暗黒の時代に小さな火花を燃やし、最後には広野を焼き尽くす勢いとなって中国全体を明るく照らした。