鄭和碑の「発見」――大航海家と西安との深い縁

2024-03-14 15:36:00

劉震=文写真提供 

15世紀初め、明の鄭和(1371~1433年)は、皇帝の命を受けて中国古代最大規模の外交使節団を率いて、西洋下りを7回行った。30余りの国々を訪れ、史上前例のない航海外交を展開し、生き生きとした人類文明の交流学び合いの壮大で美しい絵巻を徐々に広げた。 

あまり知られていないが、中国の内陸都市西安は、海から離れており、 鄭和と無縁のように見えるが、実は彼の足跡が発見されている。鄭和自身が西安を訪ねただけでなく、その先祖も同地と密接な関係を持っていた。 

明代の「鄭和碑」の「発見」により、航海家鄭和は陸のシルクロードの起点西安で、美しい「結び目」をつくり、不思議な「成果」を得た。海のシルクロードと陸のシルクロードは、西安で重要な合流を果たし、特別な「握手」を実現した。これは鄭和の西洋下りの研究の新時代における価値に新たなヒントときっかけを与えることにもなった。 

石碑の位置と内容 

1月16日、2024年最初の雪が西安に舞い落ちた。雪の中の西安城壁は、雄大、壮麗、素朴の中に詩的な美しさが加わっていた。これは中国に現存する規模が最大で、保存が最も完全な古代の城壁であり、明朝が隋唐時代の皇城を基礎として建設したものだ。 

古い城壁の内側には、中国に現存する最大規模の明代の鐘楼があり、それを中心に東西南北に4本の大通りが延びている。現地の人々は東大街、南大街、西大街、北大街と呼んでおり、中でも西大街が最も有名だ。それはちょうど唐代の皇城の有名な第四横街遺跡の上にあるためで、唐の時代、この通りの両側には中央官署や国家機関が建ち並んでいた。鐘楼の西側200余りにある明代鼓楼の所在地は唐朝の尚書省だったところで、それは現代中国の国務院のような機関だった。 

西大街は唐の長安城の中軸線北段承天門大街(現在の北広済街)と十字に交わっている。十字路の北西角には非常に古いイスラム教寺院である大学習巷清真寺が、人通りが多くにぎやかな大学習巷の中にある。門外は繁華だが、内側はひっそりと静かだ。 

清真寺の石坊(石造りの鳥居のような建築)の上には、「敕建陸次(かつて皇帝の勅令により6回建てられた)」という大きな4文字が刻まれ、その歴史の長さと特別さを醸し出している。同寺は唐の中宗乙巳年(705年)に創建され、清教寺という名前を賜った。唐の玄宗(712~756年在位)の時代に唐明寺と改名され、元の中統年間(1260~64年)に回回万善寺の名を賜り、明の洪武年間(1368~98年)に清真寺の名を賜り、永楽年間(1403~24年)に清浄寺と称するようになった。西安で最も古いイスラム教寺院の一つである。 

石坊を入り、中央にある省心閣を通り抜けると、中は静かな中庭で、二つの碑亭(石碑を保護するあずまや)が南北に向かい合っている。そのうち南の碑亭の中には「重修清浄寺碑」が立っている。これは明の嘉靖2(1523)年に地方役人と学者が建てたものだ。 

石碑の高さは2余り、幅は0ほど。正面には漢文が楷書で約500字、裏面にはペルシャ語が刻まれている。碑文に鄭和が西洋下りの準備のために西安に行き通訳を探したという重要な史実が詳細に記されていることから、「鄭和碑」と呼ばれている。この石碑が建てられたのは、鄭和がこの世を去ってからわずか90年後。現在、鄭和の西洋下りについて明らかに記した実物の資料は非常に少ない。保存状態が良い上、明代の石碑に明代のことが書いてあるということで、さらに貴重なものとなっている。 

碑文の記載によると、永楽11(1413)年4月、太監(宦官)の鄭和は皇帝の命令を受け西域の天方国(現在の中央アジアとアラビア半島一帯)に赴くため、陝西に来て、アラビア語通訳の人材を探した。本寺の掌教ハッサン(哈三)が選ばれ、鄭和と共に出発した。後に艦隊は帰国の途上、激しい嵐に遭った。危険が迫る中、ハッサンが預言者ムハンマドに祈ると、風と波が収まり、艦隊は無事に危機を乗り越えることができた。そのため鄭和はハッサンに清浄寺を修繕することを約束した。碑文にはさらに清浄寺修繕の状況も述べられている。 

なぜ鄭和は西安に来たのか? 

「鄭和碑」のたった数百文字は、いくつかの事柄について述べているが、述べ尽くしていないようで、いくつかの疑問に答えられていない感じがする。例えば、鄭和が西安に来た目的は、アラビア語通訳を探すためだけだったのだろうか? 

もしそうなら、鄭和は高い地位に就いており、加えて「西洋下り」は皇帝が自ら推進する重要な国策だったのだから、朝廷は勅令を発して、全国のアラビア語人材を南京に集めて面接すれば良かったのだ。それに当時の南京は全国でもムスリム人口が最も集中していた都市の一つで、「天下回回半金陵(全国のムスリムの半数が南京に住んでいる)」との言い方まであり、アラビア語人材は不足していなかったはずだ。それなのに、なぜ鄭和は遠くまで出向いたのか? また、鄭和が西安に来たのは、ちょうど4回目の西洋下りの準備中で、なぜこの時期を選んだのか? この背後にはまだ謎が隠されているのではないだろうか? 

さらに深く研究するにつれて、私はこれに関していくつか新たな発見をした。鄭和の7回の西洋下りのうち、4回目に重要な転換が起こっていた。前3回の鄭和艦隊は基本的に先人が開いたルートでカリカット(現在のインド南西部のケララ州一帯、古代インド洋海上の交通の要衝)まで航海していたが、4回目は新たなルートを開拓し、ペルシャ湾、アラビア半島、さらにアフリカ東海岸まで到達した。これによりカリカットの地位は目的地から徐々に中継地点へと変わった。 

私は、鄭和が4回目の西洋下りの前にあることを行っていたことに気付いた――故郷に帰り父親の墓参りをしたのである。11歳で故郷雲南を離れてから初めての帰郷だった。彼の父親マハッジ(馬哈只)は敬虔(けいけん)なムスリムで、「ハッジ」とはメッカに巡礼したことがあるムスリムに対する呼称だ。 

マハッジの墓は雲南省昆明市晋寧県にある。墓碑に刻まれている「故馬公墓誌銘」は、永楽3(1405)年に鄭和が礼部尚書の李志剛に書いてもらったもので、その後、雲南の実家で石に彫られ、父親の墓前に立てられた。碑には「馬氏の第二子の太監鄭和は命令を受けて永楽9(1411)年1122日に先祖の墓を祭り、閏12月吉日に戻った」という3行の題記がある。ここから、鄭和が帰郷墓参をしたのは11月だったことが分かる。同年7月、彼は船団を率いて3回目の西洋下りから戻ったばかりだった。 

南京で長年役人を務めた鄭和はなぜずっと帰郷しなかったのか? もちろん公務多忙が大きな原因だが、なぜ4回目の西洋下りの前に帰郷墓参しなければならなかったのだろうか? 

さらに私は、大学習巷清真寺および付近の化覚巷清真大寺で、鄭和について、特に鄭和の6代前の先祖であるサイイドアジャッル(1211~79年)一族について記載された五つの明清時代の碑刻も相次いで発見した。四つが明代のもので、一つが清代のものだ。 

北宋時代、サイイドアジャッルの先祖である西域ブハラのスルタンは、民衆を率いて中国に東遷し、陝西の咸陽一帯に居住した。サイイドアジャッルは元代初めの有名な政治家で、前後して中央と地方で要職に就き、その間、陝西で長年政治を取り仕切り、広く称賛を受けた。晩年には、雲南行省平章政事(最高行政長官)を務め、民族融合や地方発展推進の面で際立った貢献をした。  化覚巷清真大寺の明代の「三世王碑」の記載によると、サイイドアジャッルは死後「陝西に埋葬された」という。この石碑はサイイドアジャッルの10代後の子孫が陝西に帰り先祖を祭った際に建てたものだ。 

以上の資料と情報に基づいて、筆者は大胆な推測と分析を行った。4回目の西洋下りは、それまで通ったことのないルートで、それまでになかった開拓を行おうとしたのではないか? 変化が激しく予測不可能な茫々(ぼうぼう)たる大海や、どうなるか分からない各種の困難に直面し、艦隊が戻ってこられるかどうかさえ明らかではなかった。だから鄭和は3回目の西洋下りから戻ってすぐ、より重要な4回目の航海のために、「転ばぬ先のつえ」として、人材、宗教、感情、精神など各方面の手配と準備を行ったのだ。 

一方で彼は数十年離れていた故郷にわざわざ帰り、父親の墓参りをし、たとえ将来遭難して戻れなくなっても、遺恨が残らないようにした。また一方では、西安に行き、先祖のサイイドアジャッルを祭り、その地に身を置くことで、唐の都長安の開放と寛容を感じ、文化と精神における力をくみ取った。なんといっても、唐朝は人類文明の交流学び合いの輝かしい時代を築き上げた。長安城内では、アラビア商人、インドの僧侶、ペルシャの美女、日本や新羅の留学生、学問僧、東南アジア各国の芸人、アフリカの召使いなどが至る所で見られた。にぎやかな東市と西市には、世界中の珍しいものが集まっていた。世界のさまざまな国から来た、さまざまな信仰や文化を持つ人々がそこで平和に共存し、互いに良さを認め合っていた。これもまさに鄭和がくみ取りたかった貴重な経験だった。 

これと同時に、艦隊が通過する地域や国は大部分がイスラム教を信仰しており、「どのように中華文明とイスラム文明の対話融合を推進するのか」「どのように宗教間の理解と共存を推進するのか」ということを鄭和も強く意識していた。これは自身と艦隊が直面することになる重要な課題でもあったため、アラビア語通訳を探すのも重要な目的となり、どこで探すかにもこだわった。西安はムスリムと漢民族の融合共生のモデルで、非常に代表的かつ典型的な場所だった。また、漢唐時代の首都で、先祖のサイイドアジャッルが働き、暮らした場所でもあり、自然と第一の選択肢になった。 

イスラム文明と中華文明の西安での融合共生はこれまでずっと続いてきた。大学習巷清真寺の周辺には、今も大小さまざまな10カ所ほどのイスラム教寺院があり、5万人ほどのムスリムが居住している。しかもイスラム教だけでなく、大学習巷清真寺周辺の3平方足らずの区域内には、道教、仏教、キリスト教(プロテスタント、カトリック)、西蔵(チベット)仏教などの建物が軒を連ね、和して同ぜず、多元的な文化、さまざまな宗教、さまざまなライフスタイルが調和して共生する人類運命共同体の生き生きとした絵巻を描き出している。 

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