苦難に結ぶ真の友情 中日民間の助け合い11年を回顧
王朝陽=文
中国駐新潟総領事館は、日本の新潟・山形・福島・宮城の4県を担当地域とし、2010年に開設された。その翌年、日本では東日本大震災が発生。大地震によって引き起こされた巨大津波により、岩手・宮城・福島など太平洋に面する東北各県は壊滅的な被害を受け、福島第一原子力発電所では放射能漏れ事故が起きた。この突然襲ってきた自然災害の下、中日の人々は団結・協力。困難な状況下で結ばれた友情の絆は、新潟総領事館が代々受け継いできた友好の初志であり、精神的な財産である。この11年間、その絆はますます深まっている。
忘れられない電話カード
「大震災から11年たちましたが、当時のことは今でもはっきりと目に浮かびます」。こう語る新潟総領事館の白濤領事は11年当時、福岡総領事館に勤務していた。大震災発生から5日目の3月16日、白領事は急きょ新潟総領事館に派遣され、被災地で中国人の避難活動を手伝うことになった。
応援に向かう途中、白氏は次第に緊張が高まるのを感じた。「新潟市に着くと街中の人々が慌てた様子で、誰もが明らかに焦りと不安を抱え、重苦しい雰囲気に包まれていました」
着の身着のままで新潟にたどり着き、列を作って新潟総領事館が用意した避難用のバスに乗る中国人被災者たち。東日本大震災の発生後、同総領事がある新潟県と山形・福島・宮城の各県の現地自治体と人々は、自身が困難に直面しながらも支援の手を差し伸べた。その協力を得て総領事館は、多くの中国人被災者を2週間足らずのうちに安全に避難させることができた。
避難所に着いた白氏を迎えたのは、すでに5日間も不眠不休で働いていた新潟総領事館の同僚たちだった。彼らは皆疲労の頂点にあったが、気力を振り絞り、福島や宮城などの被災地から避難して来る中国の同胞たちの世話に当たっていた。
この同胞には女性研修生20人余りも含まれていた。彼女たちは大地震の発生当時、宮城県の沿岸部にある水産加工工場で働いていた。大地震は高さ30㍍余りの巨大津波を引き起した。海水が工場に流れ込もうとした時、彼女たちは近くの高台へと走り、かろうじて襲い掛かる津波から逃れることができた。身体は衰弱し極度の緊張状態にあり、避難所に着いた時にはぐったりとして動けなくなる研修生もいた。
「すぐに救急車を呼び、新潟市内の救急救命センターに搬送しました」。白氏は、あの女性たちが避難所に着いて総領事館のスタッフを見た瞬間、涙を流したことを今でも覚えている。「避難所の全ての同胞が私たちスタッフを身内と同じように接してくれました。私も改めて外交官としての責任を感じました。そのまま同胞の避難活動がほぼ完了する3月21日まで、私たちは食事や寝る時間も惜しみ、毎日、被災者情報の収集に奔走し、問い合わせに粘り強く対応しました」
領事館員と避難してきた同胞たちは、決して孤軍奮闘だったわけではない。領事館の避難支援活動は、現地の自治体と人々の献身的なサポートを受けていた。特に多くの日本人が、自らが困難な状況にあるにもかかわらず、フルーツや菓子、おにぎり、テレホンカードなどを持って避難所を訪れて、中国人を励ましていた。
「皆さんは今、日本という外国で暮らしているので、中国の家族もさぞかし心配していることでしょう。お手数ですが、このテレホンカードを避難所の人たちに配って、一刻も早く家族に無事を知らせてあげてください」。あれから11年がたった。だが、あの時テレホンカードを届けてくれたおばあさんのこの言葉を白氏は今でも忘れられない。
「相手のために自分ができる限り力を尽くし、相手の気持ちを支え、相手の身になって思いやる心という、苦境に遭った時の真心を深く感じました」と白氏は感慨深げに語った。
震災発生後、中国政府と民間も真っ先に支援の手を差し伸べた。震災の翌日、中国政府は直ちに15人のエキスパートからなる国際レスキュー隊を日本に派遣した。このチームは最初に日本に赴き、最後に日本を離れたレスキュー隊となった。
また中国側は日本側に対し、約3億8000万円の無償援助とともに、燃料2万㌧と放射能事故処理に使う大型ポンプ車など物資による支援も緊急提供した。
『孟子』を引用し感謝
大規模な自然災害との闘いが敵と不意に出会う遭遇戦だとすれば、新型コロナウイルスによる感染症との闘いは長期戦といえる。20年に新型コロナが爆発的に広がった後、新潟総領事館の統計によると、担当4県の各業界と中国国内との医療物資の相互援助の期間は、20年1月末から同年7月初めまで続き、物資の総数は145万個を上回った。
中国国内で感染症が広がった同年2月、福島県立医科大学では「雪中に炭を送る」(困っている相手に救いの手を差し伸べる)活動を行い、武漢大学付属の中南病院にサージカルマスク2万枚と医療用防護服150セットを送り、武漢の感染症との闘いを支援した。
両校は、1992年から交換留学生などの交流協力を推し進めてきた。古い友人同士のように、相手が苦境に陥れば速やかに手を差し伸べた。
旧友同士が力を尽くして助け合うだけでない。当時、友好都市関係を結んで1年にもならない重慶市巴南区と新潟県三条市の新しい友人たちも、長年の友のように息を合わせ、手を携えて感染症対策に取り組んだ。
巴南区で医療物資が不足していると知った三条市は、2020年2月上旬、マスク10万枚と医療用手袋3000組などの物資を緊急調達し中国に送った。それから2カ月ほど後、日本のコロナの感染状況が厳しさを増し始めると、巴南区はすぐさま三条市に医療物資の状況を照会。同市が至急必要とする医療物資の詳細なリストを作成すると、巴南区はそのリストの物資一つ一つを取りそろえ、ただちに日本へ寄贈した。
巴南区から送られて来た支援物資には、「出入相友、守望相助」(いつでも互いに友人のように接し、共に見守り助け合おう)という三条市の感染症対策を励ますメッセージが書かれていた。三条市の当時の国定勇人市長は、荷物を受け取った日の市長日記に、「この物資で三条市の発熱外来は半年以上継続できます」と感動の気持ちを記している。また同市長は、『孟子』の一節「疾病相扶持、則百姓親睦」(病の時に互いに助け合えば、民は親しみ仲睦まじくなる)を引用し、巴南区への感謝を表した。
両都市の漢詩を通じた親睦に、孫大剛・新潟総領事は深い感銘を受けた。「こうした互いの見守り助け合いは、民間の友情が土台となっているだけでなく、両国間に相通じる古典文化の伝統に由来しています」
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