女媧の補天の神話息づく 故事と太極が交わる古都
袁舒=文 VCG=写真
邯鄲と聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは「邯鄲の夢」「邯鄲学歩(邯鄲の歩み)」といった故事成語だろう。河北省邯鄲市は三千年の歴史を誇る古都であり、中国の歴史の中で一度も改名されたことのない唯一の町でもある。ここでは、歴史は単なる書物の中の文字ではなく、日々の暮らしの中に息づいている。例えば、滏陽河のほとりでは、年配の芸人が皮影戯(影絵芝居)を通して戦国時代の物語を今に伝える。通学途中の子どもたちは「学歩橋」を渡りながら、国語の授業で習った「邯鄲学歩」の文章を口ずさむ。そして、この地こそが、伝説の女媧が天の裂け目をふさぐために石を焼いた場所とされている。さらに、ここで生まれた太極拳は時を超え、老若男女が親しむ健康法として定着している。今回の「美しい中国」では、邯鄲の持つ奥深い魅力に迫る。三千年の歴史が、どのように現代の暮らしの中に溶け込んでいるのか。その答えを探してみよう。
文武両道の町
文――故事成語の都
邯鄲は「中国故事成語の都」として知られ、この地に由来する、または関連する成語は実に1584にも及ぶとされている。町を歩けば、その由来を刻んだ地名や史跡に至る所で出会うことができる。邯鄲を訪れたら、「成語マップ」を片手に散策してみるのも面白いだろう。誰もが一度は耳にしたことのある故事が、町の景観の中に溶け込み、今も邯鄲の人々の生活の一部として生き続けている。
戦国時代、燕国のある若者が趙国の都・邯鄲を訪れた。彼は邯鄲の人々の歩き方が美しいと感じ、それをまねしようとしたが、結局うまく歩けるようにはならず、元の歩き方すら忘れてしまい、ついには、はうようにして故郷へ帰る羽目になった。この話は「邯鄲学歩」という成語となり、「他者を模倣しようとして失敗し、元の良さすら失ってしまうこと」の例えとして広まった。今でも、邯鄲市の中心部にある「学歩橋」には、風化した石碑にこう刻まれている――「且子独不聞夫寿陵余子之学行于邯鄲与?」。これは、『荘子』の一節で、「お前は寿陵の若者が邯鄲で歩き方を学んだ話を知らないのか?」という意味だ。この石碑は学歩橋に刻まれた歴史を伝えるだけでなく、戦国時代の邯鄲が当時すでに列国が模範とする礼儀作法の都であったことを物語っている。
邯鄲の旧市街、駅からほど近い場所に「回車巷」と呼ばれる細い路地がある。この名には、戦国時代の趙国で繰り広げられた、ある歴史的な出来事が刻まれている。当時、趙国の文官・藺相如は、秦国との交渉で見事な外交手腕を発揮し、国を守った。その功績により、彼は大将・廉頗をも上回る地位に任じられた。しかし、これを快く思わなかった廉頗は、「藺相如に屈するなど我慢ならぬ」と公言し、彼に恥をかかせようとした。ある日、2人は狭い路地で鉢合わせた。藺相如は、趙国の安定を最優先し、あえて廉頗に道を譲った。この寛大な行動に廉頗は深く感動し、上半身裸になって背にいばらの枝を背負い、藺相如のもとへ謝罪に訪れた。こうして、2人は固い友情で結ばれ、趙国の国力はさらに強まった。この出来事は「負荊請罪」という成語となり、「心からの謝罪と和解」の象徴として今に伝わる。現在の回車巷を歩けば、古い町並みの中に、人々がゆったりと暮らす様子を感じ取ることができる。露店の商人が張り上げる売り声や、再開発工事のブルドーザーのごう音が時折鳴り響く。歴史の重みと現代の変化が交錯するこの路地は、まるで時空のはざまに迷い込んだかのような不思議な感覚をもたらしてくれる。
武――柔よく剛を制す
朝の光がほのかに差し込む広府古城。その静寂の中、楊式太極拳の5代目伝承者・楊振河さんがゆったりとした動きで拳を繰り出す。その姿はまるで動く絵画のように滑らかで、古城の歴史や自然と溶け合っているかのようだ。
邯鄲市の中心部から北東へ車を走らせること約40分。2600年以上の歴史を誇る広府古城が姿を現す。車を降りると、まず目に飛び込んでくるのは、古城をぐるりと囲む壮大な堀。その水面は陽光を受けてきらめき、周囲の城壁と美しいコントラストをなしている。城門をくぐると、広場では多くの人々が太極拳をしている。整然とした動きとしなやかな身のこなしに、見る者は一瞬にして太極の世界へと引き込まれる。
広府古城は4万6000ムー(約3000㌶)の広大な永年窪(地名)に位置し、城壁の周囲は4・5㌔に及ぶ。同地には年間を通じて水がたまり、城はあたかも水上に浮かんでいるような「乾地の水城」として独特の風情をたたえている。その景観の美しさから「北国の小江南」とも称される。そしてここは、太極拳発祥の地としても知られる。
太極拳の起源は河南省にある。しかし、長らく創始者・陳氏一族の内部にのみ伝えられ、外部に広まることはなかった。それが、邯鄲から拳法を学びに訪れた楊露禅に伝授されたことで、歴史が大きく動いた。彼は技を簡素化し、格闘の要素を抑えた「楊式太極拳」を編み出した。これにより太極拳は、単なる武術を超え、多くの人々に親しまれる国民的な運動へと発展していった。
古城の南門を出ると、素朴なたたずまいの屋敷が目に入る。ここが楊露禅の旧居だ。清代末期に建てられたこの家屋は、青灰色のれんが造りで、典型的な北方の民家の趣を色濃く残している。門をくぐり、最初に目に入るのが「照壁」と呼ばれる壁。その表面には八卦の図が描かれ、太極思想と八卦の融合を象徴している。
今もなお、邯鄲市永年区の広場や公園、住宅地の一角では、太極拳や太極剣を練習する人々の姿をよく見掛ける。「野馬分鬃」「白鶴亮翅」「摟膝拗歩」──伝統の技を繰り出す彼らの動きには、剛と柔が絶妙に溶け合う太極の美が宿る。太極拳はすでに、この地の人々にとって健康維持や精神修養の主要な手段となっている。そして近年では、もはや中高年だけでなく、学校の体育の授業や休み時間にも取り入れられ、子どもたちの間にも広がりを見せている。
「太極拳は、動と静が調和した運動です。動けば体が鍛えられ、静まれば心が整えられる。これによって、子どもたちの落ち着きのなさが和らぎ、脳の疲れが軽減され、学習の効率も向上するのです」と語るのは、永年区第二実験学校の体育教師・馬旭剛さん。「最近では、太極拳を習う子どもがどんどん増えています。実際、太極拳を始めたことで、学業成績が伸びた生徒も少なくありません」
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