丹霞の岩壁が語る仏教史 れんがに花咲く彩陶の里
匠の物語息づく八坊十三巷
シルクロード上の古い市場
歴史の重みを感じさせる石窟を後にし、活気あふれる臨夏の「坊」と路地に戻ると、周囲が徐々ににぎやかになってきた。
「坊」とは古代都市における末端の居住単位で、現在の社区(コミュニティー)に相当する。臨夏には回族が代々暮らす古いエリアがあり、唐代から大食(現在のサウジアラビア)やペルシャの商人・僧侶が貿易や布教、定住のために往来していた。そして次第に八つのモスク(3)(イスラム教寺院)を核として、大寺坊、祁寺坊など八つの「教坊(宗教コミュニティー)」と、大旮巷、小南巷など13の伝統的な路地が形成され、「八坊十三巷」の通称で親しまれるようになった。
真昼の陽光が灰色れんがの建築を通り抜け、大旮巷に設置された916枚のれんがを組み合わせた立体地図を照らしている。八つの教坊と13の路地が精緻に再現され、たまねぎ型ドーム(4)のモスクを囲むように四合院(中庭の四方を住居が囲む伝統的な住宅)が整然と並ぶ様子が一望できる。
路地の随所で、壁をキャンバス(5)にして刻まれたれんが彫刻(6)が目を引く。曲がり角の壁には古代の茶と馬の交易市場のにぎわいを描いた彫刻がある。臨夏はシルクロード上の要地として、古来、商人が多く集まる場所だった。壁画にはラクダを連れた隊商、馬に餌をやる従者、露店を広げる商人、茶店で休む客が躍動感たっぷり(7)に表現されている。中央では広縁帽子の地元商人と白い帽子のアラブ商人が握手をしているように見える。だが実は、これは袖の中で指を使って値段を決める「袖里吞金」という伝統的な商習慣を再現しているのだ。
北宋に起源を持つ臨夏れんが彫刻は、明・清時代に技法が完成され、今や地域を代表する文化の顔(8)となった。路地にあふれる多様なれんが彫刻は、職人たちがれんがを一枚一枚組み合わせ、のみで一彫り一彫り仕上げたものである。
灰色れんがに咲く「花」
臨夏の人々は牡丹を愛する。富貴と吉祥を象徴するこの花は、れんが彫刻の定番モチーフだ。国家級無形文化遺産「臨夏れんが彫刻」の継承者・沈占偉さんは、この伝統を極めた者の一人である。
工房に「カンカン」と清らかな音が響く。「鋼をたたくようなこの音が、良質なれんがの証です」と沈さんは語る。彼はれんがの選別から研磨、下絵描き、精密な彫刻、設置の調整まで、全工程を実演してみせる。彼の手にかかれば、一枚一枚の灰色れんがは、いかなる枠にも縛られることなく、自由に枝を伸ばし、花を咲かせ、やがて影壁(目隠しの壁)にはめ込まれ、寺院の塔に据えられる。それらは長く建築の上に静かにとどまり、作り手の心血と巧妙な工夫を、声なく語り続ける。
農家に生まれた沈さんは幼少期かられんが彫刻に魅了されていた。「子どもの頃かられんが彫刻や年画、木彫りを見るのが大好きで、まねしていました。でも当時は材料がなくて、木の枝やれんがの破片で地面や壁に落書きしていました」
1990年、22歳の沈さんは経験豊かなベテラン職人に師事し、れんが彫刻の道を歩み始めた。卓越した絵画の才能と不断の努力により、路上で露店を営む身からわずか2年で小規模工房を構えるまでに成長し、地元で急速に頭角を現した。当時、臨夏楡巴巴寺の再建工事が進行中で、複雑な技術を要するれんが製の「博古架(骨董品飾り棚)」2点の制作依頼があったが、その難度の高さから多くの熟練職人は手を出そうとしなかった。
若い沈さんはこの仕事を引き受け、過酷な制作に8カ月間没頭した。数十枚の灰色れんがは彼の手によって、精緻な文様と盆栽・器物・動物の装飾が刻まれた見事な博古架へと生まれ変わった。この実績により、彼は業界で広く認められるれんが彫刻の大家となった。
現在、大旮巷の交差点に立つ前述のれんが彫刻「八坊十三巷」は沈さんの代表作の一つである。57歳となった今も、優れた技術を持つ弟子を多く育て、自身の息子もこの世界へと導いた。路地のれんが彫刻の壁の前では、弟子たちを率いて熱心に指導する彼の姿を頻繁に見掛けることができる。
陶片をつなぐ文明のパズル
八坊十三巷の一角に、一風変わったれんがの壁がある。巨大な陶器の浮き彫りが「腹を突き出す」ように壁面から飛び出しており、多くの観光客がそこで足を止める。
この陶器の原型は、1950年に臨夏・積石山県で出土した「彩陶王」だ。5000年以上前の馬家窯文化(中国新石器時代の彩陶文化)は、臨夏の地に数多くの貴重な宝を残し、「彩陶の里」の異名をもたらした。
八坊十三巷から程近い茶馬古市文化通りにある工房。彩陶職人の馬黒麦さんの作業台には、5000年前の「宝の破片」が散らばっている。回族の職人はブラシで破片の表面を軽く払う。青銅色の渦巻き文様が日光にきらめき、黄河の波紋が陶土に封じ込められているかのようだ。
「一つの隙間を埋めるのに1カ月かかることもあります」。欠けた陶器を手に、馬さんはその来歴に思いをはせながら、驚異的な忍耐力で復元に挑む。
54歳になった今も、馬さんは少年時代のある日を鮮明に覚えている。その日、父親が棚田から土の中で偶然掘り出した彩陶のつぼを持ち帰った。つぼの表面に施された複雑な模様と、その素朴な形が彼の心を強く引き付けた。馬さんが住んでいた工匠村の川辺には、廃墟となった古い土窯があった。当時、村の人々は近くの土の中で見つけた陶片を壊れた瓦片だと思っており、くわを一振りしてまた土に戻していた。しかし、馬さんの目には、太陽に照らされた彩陶の破片が黄土の中できらきらと輝いて見えた。
「17歳のとき、村にやっと電気が通りました。でも私が最も明るいと感じたのは、陶片のきらめきでした」。夢中になった少年は美しい破片を集めて持ち帰り、つなぎ合わせる方法を模索した。これが彼の彩陶修復の原点となった。
成長した馬さんは臨夏に彩陶修復工房を開き、古代の彩陶を模した工芸品の制作も手掛けるようになった。彩陶が並ぶ、一人だけが動けるほどの狭い空間で、彼は日々彩陶を修復し、作り続けた。土を選び、混ぜ合わせ、素地を作り(9)、文様を付けて焼成する。数十年もの間、ひたむきに心を込めて作業を続けることで、割れた陶片に新たな輝きを与え、黄土に新たな命を吹き込んできた。
近年、馬さんは「一帯一路」共同建設国であるロシア、カザフスタン、マレーシアなどで開催される国際文化交流展に自身の彩陶工芸品を携えて参加し、臨夏の彩陶文化を世界へ発信している。
上一页13下一页 |