李白が見つめた静かな山 詩の伝統を支える紙と墨
安徽省南東部において、黄山の余脈はゆるやかに勢いを収め、連なる青々とした丘陵へと姿を変える。青弋江と水陽江は二筋の碧玉の帯のごとく、優しく千年古城――宣城を抱きかかえている。ここは、中国伝統の「文房四宝」の中でも特に名高い「宣紙」と「徽墨」の故郷であり、また歴代の詩人が繰り返し詠じ、心を寄せてきた「山水詩境」でもある。
今日の宣城は、騒がしさと繁華を誇る観光地ではない。むしろ一塊の静かな墨、一枚の素朴な宣紙のように、時の研磨と浸潤の中で独自の穏やかさと重厚さを沈殿させ、ゆっくりと歩むことを知る者に静かに読み解かれるのを待っている。
詩仙の精神のふるさと
町の北側に小さな山がある。名を敬亭山という。
さほど高くはないが、中国の文化的記憶において特別な位置を占める山である――この山はかつて李白に「知己」と見なされた。偉大な詩人がなぜ山を知己としたのか。その背後には数百年を越える物語がある。
李白は生涯7度にわたり宣城を訪れ、そのたびに敬亭山に登った。これほど頻繁な再訪は、彼の波乱に満ちた生涯において極めて珍しい。その重要な理由は、今日の言葉でいえば「推しを追う」ことであった――すなわち、文学的偶像である南朝の詩人・謝朓を追い求めたのである。

謝朓の時代は李白より200年以上早い。この才気あふれる詩人は、中国の自然山水を体系的に描いた最初期の詩人の一人であった。彼はかつて宣城の太守を務め、公務のかたわら山水に遊び、数十首の詩を残したことで、この皖南(安徽省南部)の小都市を初めて文人の視野に押し上げた。彼が建てた官舎「高斎」は、後に謝朓楼と呼ばれ、宣城最初の文化的ランドマークとなった。
謝朓の「熱烈なファン」であった李白は、自らの詩の中にも、彼への追慕の念を繰り返し詠み込んでいる。ゆえに長安での仕途に挫折し、意気消沈したとき、彼が自然と偶像の足跡をたどり宣城へ向かったのも当然である。彼は謝朓楼に登り、広がる江天を前に「抽刀断水水更流,挙杯消愁愁更愁(刀で水を断とうとしても流れは止まらない。酒で憂いを消そうとしても、かえって悲しみは深くなる)」と詠み、時空を超えて先人と響き合う心情を表した。
宣城において、李白は文学的巡礼を果たしたのみならず、精神の寄る辺をも見いだした。当時の彼は官途に浮沈し、孤独の身で、しばしば一人で敬亭山に登った。「衆鳥高飛尽,孤雲独去閑。相看両不厭,只有敬亭山(鳥たちはみな高く飛び去り、たった一つ浮かんでいた雲も流れ去った。見つめ合っていても飽きないのは、この敬亭山だけ)」――この20字の詩は、李白と敬亭山の「相知」を語る。山は語らずとも彼の全ての思いを受け止め、人は言葉なくして静かに向き合う中で深い慰めを得る。かくして山はもはや単なる山ではなく、知己となったのである。
宣城で、李白はまた真摯な友情を得た。宣城・涇県の県令であった汪倫は李白を慕い、自邸に招こうとした。彼は巧みな招待状を書いた。「先生は旅を好まれますか。この地には十里の桃花があります。先生は酒を好まれますか。この地には万家の酒店があります」。李白はもとより美景と美酒を愛し、喜んで赴いた。桃花潭に着いてみると、「桃花」は潭の名であり、十里にわたる花はなく、「万」は店主の姓であって酒家が万軒あるわけでもなかった。この「善意のうそ」に李白は思わず笑みを漏らした。別れの際、汪倫は村人を率いて岸辺で歌い踊りながら見送り、李白は深く感動して「桃花潭水深千尺,不及汪倫送我情(桃花潭の水の深さは千尺もあるが、汪倫が私を見送ってくれる情の深さには及ばない)」と詠んだ。この一句により、桃花潭は友情の象徴となったのである。
謝朓への憧憬から始まり、敬亭山と「相看両不厭」の境地に至り、さらに桃花潭のほとりで汪倫と友情を結ぶに至るまで、宣城は李白晩年の重要な精神的軌跡を見守ってきたのである。統計によれば、現存する李白の詩のうち40首以上が宣城と関わっている。ここはまさに彼にとって名実ともに「精神の故郷」となったのである。
李白の後も、白居易、杜牧、韓愈ら多くの文壇の巨匠が相次いでこの地を訪れ、幽趣を探り勝景を求め、詩を詠み続けた。こうして宣城は「昔からの詩人の地」と称される文学的地位を確立したのである。
今日の敬亭山を歩けば、空気には草木の清らかな香りが漂う。李白を記念して建てられた唐風の楼閣「太白独坐楼」の前では、漢服をまとった若者たちが写真を撮っている。中腹の古昭亭茶社に至り、地元名茶「敬亭緑雪」を頼み、回廊に腰を下ろす。目に入るのは、かつて詩仙が見つめた山の景色である。しばし静かに座していると、彼がかつて身を浸したのと同じ静寂を呼吸しているかのように感じられるのである。
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