江原規由さんの追悼に寄せて 良き師良き友との別れ

2020-08-14 17:07:00

『人民中国』総編集長 王衆一=文

不幸な知らせと後悔

15日に受けた心臓の不整脈手術がうまくいかず、今も危篤状態が続いています。人工心肺をつないでおり、心臓がなかなか回復しません」。寝耳に水のようなメールが7月17日に江原規由さんの妻、孔江さんから送られてきた。メールの末尾にあった、「大変申し訳ないのですが、毎月、夫が生きがいのように楽しみにしていた人民中国の原稿がもう書けません」という孔江さんの言葉に胸が張り裂けそうになった。このような時でも孔江さんの念頭にあったのは、夫が他人と交わした約束だったのだ。私は感動するとともに悔しい気持ちでいっぱいになった。氏の病気のことを知っていたのに、仕事を軽減することに思い至らなかったのだから。そして奇跡を祈り続ける中、同月26日、江原さんが帰らぬ人となったという訃報が届いた。

大きな悲しみで混乱した頭も、1週間もたつと次第に明晰になっていき、江原さんとの出会いや交友の思い出が少しずつ浮かんできた。

 

豊富な経験に彩られたコラム

江原さんと初めて会ったのは17年前だ。中日新聞事業促進会の交流イベントが2003年10月に江蘇省無錫市で行われ、それに出席したきっかけで運命的な出会いを果たした。

交流会で、あるとても紳士的な方の、洞察力に富む発言に引き付けられた。その時は、その人が日本貿易振興会(ジェトロ)北京センターの江原規由所長であることは知らなかった。氏の「東北振興」を見る視点は独特かつ斬新で、「海外進出と外資誘致」の見解は示唆に富んだものだった。友人の紹介で江原さんとあいさつを交わした際、雑誌に投稿してくれないかとぶしつけにお願いしてみた。すると氏は、北京に戻って具体的に相談しようと快諾してくれた。本当にさっぱりした性格の方だった。

北京に帰って数日もしないうちに江原さんから原稿のことで連絡があった。言葉を交わす中で、氏が常に中日経済交流の第一線で活躍しているとともに、中国の政治や社会、歴史、文化など多分野にわたって関心を示していることに気付いた。これが氏に人一倍鋭い目で中国経済を見る洞察力を持たせていた。また、5年間のジェトロ大連事務所初代所長の勤務で1998年に大連市政府から旅順口区名誉市民の称号を授与されていることから、氏が中国の地方にも深い見識を持っていることが分かった。このように豊富な経験と中国経済への深い洞察力を持つ氏がその体系的な思考を述べるには、原稿を1本書いてもらうだけでは全然足りないと思った。そこで私はまた臆面もなく、氏に連載コラムを執筆してもらうよう申し出た。当時の『人民中国』はまだ日本人による経済コラムがなかったため、氏ならこの状況を打破してくれると直感したのだった。氏は少しためらったが、すぐに快く引き受けてくれた。日常業務もすでに飽和状態だったはずなのに、コラムの仕事を承諾した氏の思い切りの良さに本当に感謝した。しかしその約束が17年後の今、人生の最後まで続くことになるとは夢にも思わなかった。本当に義理堅い方だった。

新連載のコラム「中国経済 ここがポイント」は2004年に掲載されるとすぐに注目を集め、人気を博した。何年にもわたって続いたが、どれも読み応えのある文章だった。江原さんと私は共通の趣味があり、映画についてよく語り合った。そのような映像的思考が氏のコラムをさらに自由にし、博引旁証して内容を豊かにし、文章に十分な視覚効果を添えた。「中国社会を守る『七人の侍』」「七つの色で表される中国経済」などのタイトルから、氏の伸び伸びとした発想力がうかがえる。

3年間で書いた数十本の記事は圧巻の内容だった。08年、外文出版社が「外国人が見た現代中国」という出版企画を立案した際には、氏のコラムが最適な材料になった。江原さんと相談し、370以上の作品集に『中国経済36景』という気負わないタイトルを付けた。江戸時代の浮世絵師葛飾北斎の富士図版画集『富嶽三十六景』から借りた名前だ。本の構成を「章」ではなく「幕」で区切ったことも、江原さん独自の創意工夫が表れている。本当に含蓄や遊び心のある方だった。

そしてジェトロ北京センター所長の任期が満了した江原さんは日本に帰国したが、「チャイナパワー」というタイトルでコラムを書き続けた。 

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