江原規由という人

2020-08-20 14:06:12

飛行場に迎えに来た人は大きな体の運転手さんで、宿泊先のホテルまで夫と二人で途切れることなくワーワー話しながら運転しています。私は後部座席に座って、この言葉がわかる日がいつか来るのだろうか、と大連の薄暗い茶色のビル群を眺めながら思ったものでした。

大連外国語大学漢語センターに通うことにしたのは、中国語ができないと日常生活が全くできない、ためでした。到着して2日目に江原氏は仕事の合間の昼休みの時間に私を大連外国語大学に連れて行ってくれました。が、宋先生(中年の堂々とした女性教師)とベラベラしゃべった挙句、「夫人はきょうの午後の補習から参加してください」との言葉を聞くや否や、さっさと私を置いて事務所に帰ってしまったのです。全く中国語がわからない私は、宋先生とのコミュニケーションをどうとっていいのか不安になって、そっと英語で話してみましたが通じません。そうか、ここは漢語センターなのだ。午後の補習授業とやらいうクラスには、23名の遅れてきた寮在住留学生という若者たちの横に座り、わけのわからないうちに授業は終了。さて、一体私はどうやってホテルに帰ったらいいのだろう。ダイダイ色に暮れゆく早春の空を見ながら途方にくれたときのことは、いまでは懐かしい思い出の一つです。

こうして私の中国との出会いが怒涛の如く始まったのです。

翌朝から私はどうやって学校に通うのだろう。ホテルの窓から次第に暗くなっていく3月下旬の凍りつくようなほこりっぽい街路を見下ろしながら、学校の方角は一体どちらだろう、と眺めたものでした。同じホテルにすでに漢語センターに毎朝通っている夫人たちがいる、とのことがわかり、いそいそとご挨拶に行き、翌朝からロビーで待ち合わせて“徒歩とバス”!で通学することになりました。

さて、「これからはアジアだ」という言葉。これは江原氏の言葉だったのでしょうか。後でわかったことでしたが、江原氏にこの寸鉄を放った恩師がいたのでした。それは江原氏が1975年、JETRO入会直後に出会った堀武昭という先輩でした。当時埼玉県花園村の実家から虎ノ門という東京都のど真ん中にあるJETROのオフィスまで「通勤往復5時間の男」として異色の新入会生デビューをした江原氏に「エハラチャン、これからは中国語だよ」と香港大学に中国語の語学研修生として派遣希望を出せ、と背中を押した大先輩でした。派遣が決まった江原氏にとって、ちょうど父親が57歳で心筋梗塞で急逝直後の時期と重なり、傷心の出発となりましたが、2年間の研修生活を経てJETROの中国経済担当者の道を歩むことになったのです。

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