この目で見た中国の実情を日本に伝えよう!

2023-05-23 15:29:00

平和友好のメツカ

倉田 メーデーの前夜祭の、人民大会堂での祝宴に招待をいただいたわけなんです。その大会堂にいってみますと、全国から、たくさんの方がみえておりますし、中国のいろいろな層の人もみえておりました。ぼくらのテーブルにすわられた方は、十八、九の娘さんで、パラシュートの降下選手の人でしたが、その人がとてもいきいきとはつらつした顔をしている。ぼくはいなかもんでそういうふんい気はなれませんしね。どぎもをぬかれてしまって、キョロキョロしてたというのがほんとうなところなんですよ……(笑)


大島徳弥氏
大島徳弥氏

石川 あのね、わたし、一九五八年のメーデーにいちど参加したんですよ。そのときは天安門の前に集中したメーデーだったんですね。こんどは分散メーデーというわけで、方ぼうの公園やなんかで分散してやってたわけで、この前とはまたちがってひじょうによかったわけです。あれもメーデーの大衆路線じゃないかと思うのですよ。どんな人でも参加できてね。それぞれのグループで、踊りや歌をやってまったく楽しそうにしてる。そしてそこへ、それぞれ国家の指導者が参加するんですね。わたしたちのところには李先念副総理だとか、それからあのチベットのパンチェン·ゴルトニだとか、いつもは写真でしか見たことのない人がやってこられて、ひじょうに感激したわけですね。そういうなかで、わたしたちが「沖繩をかえせ」という日本の歌をみんなの輪のなかにとびこんでうたったわけですね。

古谷 それがさ、うたわずにおれないようなふんい気なんだなあ、あれは、アハハ……(笑)


小浦行長氏
小浦行長氏

石川 ぼくはひじょうに気がよわくて、人の前で歌をうたうなんて、ちょっとできないような男だけどもね、あそこでは歌わずにはおれなかったですね。そしたら、みんなほんとに心から喜んで手をたたいてくれて……

古谷 ずいぶん熱狂的な拍手だったね。

石川 あれにはこっちの方も感激しちゃったですね。それで、もういちど歌おうということになって、二度うたったわけです。わたしたちメーデー前後をつうじて、アジアの労組の代表、キューバの人たち、アフリカの労働者、各国の人たちといっしょに歌をうたったり、とんだりはねたりしてふかく感じたことは、北京が平和と友好のメッカだということですね。あそこにほんとに民族解放のためにたたかっている世界各国の人たちが、心からの信頼をよせてきてる、そして中国人民の支持をほんとうに心からうけとめているということを、ぼくはひじょうにふかく感激したわけです。で、中国の人たちは日本人民の闘争と全世界の人たちの民族解放運動を、ことばのうえだけでなく心から支持しているということをやっぱり日本の人たちに深くつたえる必要があるとぼくは思うわけです。

小浦 わたしも石川さんがいわれたようにですね、中国のメーデーというものは、全世界の労働者、民族解放をたたかっている人民の喜びと希望のメーデーだということをつくづくと感じたですね。とくに政府、人民警察もふくめて、全労働者、全人民をあげてメーデーを祝するというようなことは、日本ではかんがえられないことだと思います。


河野寿生氏
河野寿生氏

全体 そうだ、そうだ。

古谷 いや、警察だけじゃないよ、あんた。解放軍の兵士もみな参加して……アハハ……(爆笑)

鈴木 チベットのパンチェン·ゴルトニですかね、あの人が民衆といっしょに、われらといっしょに手をつないであるいてさ、あれはちょっとオドロキでしたね。

古谷 ぼくは代表団の団長として天安門の上にあがって、あの花火の夜、いきなり毛主席や朱徳さんや、劉少奇さんやあるいは周恩来さんに会ったわけですが、毛沢東さんなんか、抱きかかえるように暖かい手でやわらかく、日本の友だちよ、中国語で「日本朋友們(リーペンポンユーメン)」よということでね、ぐっとひきしめられたときの感激というものはひじょうに忘れられないと思うんです。これはわれわれ日本人民に対するひじょうな支持と激励と、友情の象徴だと感じましたね。

それでは、つぎの問題にうつりましょう。われわれは北京のつぎに上海を参観し、上海で労働者住宅を見たわけですが、そのときの感想についてだれかどうぞ。

ここはかつて貧民窟だつた

大島 上海で蕃瓜弄というところの住宅を見せていただいたんですが、あそこは解放前はコジキみたいな人たちがおったところで、雨がふれば家は雨もりするし、下水道はないし、たいへんなところだったようです。ところが解放後、下水道もりっぱにでき、井戸も掘って、当時コジキをしとったおばあさんがいまそこの責任者になってるわけですね。

天道 あそこは、むかし紡績工場のあったところで、日本軍が爆撃して全部ふきとんだわけですが、そのあとの空地へ放浪者や貧民がいつとはなしに寄り集まってきて、そこに腰をまげなきゃはいれないような監獄型の小屋ができた。自然にああいう貧民窟ができたらしいですね。それが、今では大島さんのいわれたように清潔になり、家こそりっぱじゃないけれども、衛生所などいろんな衛生設備がちゃんとあって、専任の看護婦さんがついている、それに図書室も託児所もありました。われわれがのぞいたらかわいい子供たちが手をたたいて歓迎してくれた。それから、さっき大島さんもいわれた、あのコジキしていたおばあさん、この人がシャンとして、われわれに筋道だった話をしてくれた。

古谷 そのおばあさんのむすこさんがいま、上海の交通大学かなんかにいってるんでしょう。家の中にはラジオからタンスなどの家具類がいっさいそろってる、まったく驚きましたね。

天道 そのおばあさんが文盲退治の先頭に立って、自分もいま初級中学にかよってるということだった。

古谷 三年生だったかな。

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