この目で見た中国の実情を日本に伝えよう!
働く人たちのいこい
倉田 上海の労働者文化宮にみんなでいきましたね。言ってみれば、労働者のクラブのようなもんですなあ。六階だての大きな建物で下から上まで、各階に碁をうつところやら、将棋室とか、卓球をやるところとかね。また、ちょうど年配の人がお茶をのんで語りあうところ、それから演劇だとか、コーラスだとか、労働者のサークル用の設備といったものがそろっていましたね。
大島 われわれを歓迎して「東京―北京」を中国語でうたってくれたね。
一同 コーラスのへやでね。
倉田 労働者が自由に勉強もできる、図書館だって、一〇万冊かの図書がある。また上海の労働組合の闘争の歴史という教育的な写真展の会場があった。
鈴木 あそこはもと東方というホテルだったそうですな、あの大きな建物を総工会で買いとったんだそうです。一日の利用者が一万人ぐらいですね。あそこのほか各区にまた労働者文化宮があるそうですね。
古谷 各区にもおなじような労働者の施設というものがあるということいってましたね。またこれは、上海だけのことじゃないわけで、全国的にそういうものがある。
石川 ぼくは労働者文化宮をみて中国の新文化の本質的なものをみたような気がするんですよ。文化が大衆のなかにはいる、そして、また大衆のなかから文化がでてくるということをね。北京できいた話だけど、中央のすぐれた劇団だとか、楽団だとかというものが、中央ではなかなかきいたりみたりできない、ほとんど地方をまわったり、工場をまわったり、農村をまわってるんだ、というんですよね。ちょうど南昌へいった時、わたしたち南昌で中央放送合唱団の公演をきくというようなことがおきたのです。やっぱり、そこにも新しい文化のあり方というものがはっきりでてると思いますね。
古谷 各地で話をききましたが、職場の文化サークルというようなものが各産業別、あるいは各職場でひじょうに発展しとってね。創意、自主性でもってどんどん発展していって、しかもそれを上からずっとのばしてやる措置がとられている。うらやましい感じがしましたね。
大島 文化が大衆のなかにはいり、大衆のなかからまた文化がでてゆくということ、これは大事なことですね。たとえば新人養成ですが、音楽の新人養成、美術家の新人養成、こういうものが、この文化宮のなかでおこなわれている。たとえば、上海の文化宮から二二名の一流の専門作家がでたということ、これは、たいしたもんだと思いますね。
河野 文化宮の話がでたんですがね、上海ってところは昔は文盲が七〇パーセントおり、たいはい文化やアメリカの生活様式がさかえていた帝国主義者のひとつの牙城だったのですね。それがたとえばあの競馬場がいまは人民広場になってる。あそこで日本人民の安保闘争を支持するデモがやられて、一七〇万人が参加した。そういうことは、結局は、だれのための政治かということになると思いますね。
古谷 われわれは上海その他の各地において、労働者といろいろ交流をして、話をきいたり工場を参観したりしたわけですが、そういう話もこのさいひとつぜひしておいたらいいと思いますが。
らくになつた労働者の作業
倉田 わたしのいったのはゴム工場ですが、解放前はちいさなゴム工場だったわけですね。解放ごも当初はゴムグツしかできなかったんですけど、いま四八種類のタイヤ、上海の工業展覧会にありましたように、小さなスクーターのタイヤから、建設用のタイヤができるようになったわけです。設備としましては、まだまだ日本と比べておくれてる。おくれてるというよりも、十分でない。むかしの建物を補強しながらやってる。しかし、そのなかで労働者の創意というものがくみとられて、どんどん改善されているようです。やっぱりコンベヤシステムで、ひじょうに作業がらくになってる。労働者なもう作業しやすいような環境で仕事をしている。こういう点がひじょうにいいことだなと思ってみてたのです。
鈴木 倉田さんの工場で採用したがっているけども、採用しない、というような機械がすでに採用されてるなあ。
石川 わたしは上海の第五ハトバへいきましたが、そこで三十二年間労働者をしたという人から話をきいたわけです。昔のハトバ労働者はクリーといわれて家もなしに、夜ねるのはそのハトバに近いところで、軒下でごろごろイヌのようにねてたということです。上海でも雪や氷はやっぱりあるんです。冬は餓死したり、こごえたりして、仲間がずいぶん死んだそうですよ。たとえば夏はどんなにあつくても、お湯をコップに一日数杯分しかのましてくれない。アメリカなんかからきた船で荷物をおろすのに、ちょっとうっかりして水道の蛇口に口をつけてのんだのです。そしたらぶんなぐられたこともあったとね。まったく言語に絶した苦しい生活だった。ところがいまはね、まあ賃金のことはべつとして、夏あついときには、ジュースやサイダーやアイスキャンデーや緑豆のスープまでつくってくれ、冬は寒いだろうというわけで、ショウガ湯をつくってのましてくれる。港の設備もずいぶん機械化されている。トラックに、ドラムカンをのせるにも、ひとりでうごかせる小さいクレーンを使ってね。日本だったら、板をおいて二、三人でえっさえっさころがすところですね。そのクレーンは、一九五八年の技術革新のときに自分たちでつくったんだというんです。それから、雨がふったら仕事はやすむ、といっていました。
河野 ぼくは、中国へきて、やはりわたしたちの仲間と交流をしたいと思ってたのです。そこで上海の市南という郵便局に秘書長とわたしと東京の大島さんが案内されていきました。そうしてわたしたち日本人民の郵便労働者の友宜をお伝えし、中国の郵便労働者との友宜を深めえたということは、わたしにとってたいへんうれしかったわけです。この郵便局に働いている人は何人かといえば、一一九名で、わたしが働いている郵便局よりもすこし小さいわけです。そこで、郵便局の状況をいろいろ聞きましたら、解放以前は、みんなは仕事の意欲もなく、ひどい仕事をしておったと、しかし、解放されてから郵便が人民に奉仕するものであり、このことがわたしたちの最大の任務であるということで仕事のやり方もかわったといっておりました。日本ではいま、米日反動派がひじょうに労働者をしぼりとっており、郵便がひじょうにふえたにもかかわらず、人をふやさず、低賃金でやっているために、その被害が郵便の遅配という結果になって、はなはだしいときには、一ト月以上も郵便がおくれておるわけです。よく日本でも配達にいって、標札もあがっていないようなところではひじょうにこまる場合があるわけですが、それも人手がたりんと、まあ十分に解決できんので、郵便をもちかえって、差出人にかえすという場合がひじょうに多いわけです。ところが中国の方は、家にいってわかりにくいところは、あらかじめ、家をちゃんと発見してですね、わかりやすいように名前もあげておくと、こういうことも話していただいたわけです。また、いろいろ機械化の面でもできるだけむだも少なくして、日本ではできてないような機械化がやられてるわけです。たとえば、配達の道順組み立てですか、この道順組み立てにいたる工程までが全部流れ作業でやられておる。それから、日本の場合封筒なんかもガチャガチャ手でおすわけですが、それも全部機械化されておる。こういうのも解放ご十二年間に労働者がほんとうに人民に奉仕するんだという立場のなかで、いろいろ工夫してやられたわけですね。で、帰ったら『人民中国』を読んで、テキどもはね、おお君たちもそういうぐあいにやってくれんかというようなことがあるかもしれませんがね(笑)。中国では、労働条件ももちろん解決しておるし、生活も保障され、住宅も保障されておる、このなかで、さらに社会主義建設のために重要な通信をわたしたちはあずかっているんだと、こういう立場から人民のために、中国の社会主義建設のために光栄あるこの郵便の仕事についてるんだと、こういう気持ちが、ほんとにあらわれているということについてひじょうに感激したわけですよ。
小浦 わたしは郵便局へ参観にいって機械化に感心したんです。切手をうるところにお金をいれると、おつりがでてくる機械があるわけですね。利用者になるべく時間をとらせないということが基本におかれているわけです。利用者のために、手紙を書いたりできるように服務台というのがつくられておる。封筒もでてくる、びんせんもでてくる、しかも一般の人が利用する場所がひじょうにひろいわけです。ほんとうに大衆に奉仕するというぐあいに郵便局ができているわけですね。
河野 公衆ダマリにはいって手紙を書くことができるわけですね。すわったままお金をポンといれればハガキがでてくる。紙も全部おいてあるし、切手のお金をほうりこめば、おつりがでてくる、ポンと投かんすれば流れ作業でゆくわけです。ランプであんたの手紙はもうちゃんとあの作業室にはこばれましたよ、という標示までがでるようになっている。労働者が工夫してやられているのですね、こういう点はほんとうに社会体制のちがいといいますか、はっきりしたもんですね。
古谷 わたしたちが中国に訪問していらい、各地で中国人民の方がたからひじょうな支持、激励、また心のこもった友情を示されました。そういう日中両国人民の友宜の問題について、ひとつ皆さん方のご感想を発表していただいて、この座談会のしめくくりとしたいと思います。
深まるわたしたちの友情
石川 この間、南昌の町から六〇キロも離れた人民公社へ行ったとき、小さな町ですけど、たくさんの人たちが車の周囲に集まってくるんです。何人位だったかな、二~三〇〇人位かな(みんなの声―二~三〇〇人とはきかないよ)とにかく黒山のようにたかってきたわけですよ。その人たちにわれわれの自動車が近づくと急に拍手をしてくれたのにはびっくりしたですね。ああいういなかのへんぴなところの人たちが、日本人たちにたいして拍手をしてくれるということでひじょうな感激をしたですね。大きな都市でいつも外国の人たちが来るようなところではなくて、まったく外国人がゆかないようなへんぴなところで拍手をして歓迎をしてくれたということをみても、現在の中国がどれほど日本人民との友好ということについて一貫した政策で人民を教育しているかがハッキリとわかる気がしました。
古谷 わたしども代表団がこんど訪中した最大の目的は、日中両国人民の戦闘的友宜をほんとにたかめあい、ふかめあい、発展させるということだと思うのです。で、わたしたちが中国をおとずれて、感じたところは、二つの点があると思います。第一は、中国人民が当面しているいちばん重要な対外問題は何かというと、これはアメリカ帝国主義にたいする問題ですよ。第二に、世界のなかでいちばん中国人民が注視しているのは日本の問題ですよ。『人民日報』を毎日よんでみても、日本の問題について、日本の政情について、日本人民の生活について、日本にある米軍基地の問題についてのらない日はないですね。つまり、この二つの問題が中国人民のもっとも重大な対外的な問題であるということを、わたしどもは身をもって体験したと思うんです。アメリカ帝国主義が中国の領土台湾を不法占領し、たえず軍事的挑発をおこなって極東で緊張情勢をかもしだして世界の平和をおびやかしている。こういう重大な問題がひとつさしせまってある。そこへもってきて、アメリカが日本をアジアにおける最大の軍事的な拠点にし、アジアで最高度の経済力と工業力をもち、すぐれた人的資源をもっている日本を侵略の道具につかって、中国をふたたび侵略してくるかもしれないということは、中国人民にとって重大な問題だと思うんです。そういう点で日本人民の愛国反米の闘争というものは、中国人民の平和の利益と切っても切れないつながりがある。そういう意味で日本人民の闘争は、中国人民にとってもひじょうに重大な関心事だとわたしはおもいます。こんにち日中両国人民の友宜、友情というか、共同の基盤というものはいろいろあると思う。民族的に長い間交渉があったとか、地理的にももっとも近いとか、いろいろありますけれども、世界の戦争挑発人であり、あるいは植民地主義者であるアメリカ帝国主義にたいして、共同的にたたかうということが両国人民の共同の友宜のいちばんつよい基盤だというふうに、われわれは身をもって感じたわけです。それで、われわれ自身としては、アメリカ帝国主義とそれに結ぶところの国内反動の中国敵視政策を具体的に粉砕してゆくことが、とりもなおさず今日の日中両国人民の友宜、友情を発展、強化させるいちばん基礎的なもんだということが、中国を友好訪問してやく一ヵ月、わたしどもが心から痛切に感じた点だと思うわけです。わたしども今後、帰国をしてですね、中国の実情をふかく、ひろく、日本人民につたえ、そして、日中友好運動をいっそう発展させてゆくという決意にもえてるんだということを、ここで日本の読者にお伝えして、この座談会をおわりたいと思います。大へんありがとうございました。
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