団結と友情のひと月
南方コース
毛主席の故郷をたずねる
唐忠朴(タンチユンプー)
北京 8月31日 (火)
晴
北京(ペイチン)での中日青年友好大交流に参加した日本青年代表団はきょうから三班にわかれて各地をたずね、参観と交流をすることになった。記者は南方へ向かう班に随行する。南方のコースは武漢(ウーハン)―長沙(チヤンシヤー)―南昌(ナンチヤン)―廬山(ルーシヤン)―杭州(ハンチヨウ)―上海。
午後八時、発車三〇分前に北京駅につく。駅は旗とテープと花束の海だった。プラットホームでは、数千名の晴着をまとった中国の若い男女が日本の若ものの到着を待ちかまえていた。間もなく南方コースをゆく九二名の日本の若ものが駅に到着。別れをおしむ中国の若ものたちはどっと日本の若い友人をとりかこみ、別れのあいさつをかわす。
全国化学産業労働組合共闘会議代表団の友人たちは若い労働者にかこまれて握手攻めにあっている。どちらも別れ難い思いをこめて握手をつづけている。あちらでは全日本学生寮自治会連合会代表団の小野朋子さんが、北京大学での交流で知り合った王秀純(ワンシユウチユン)さんを捜しまわっている。ドラや太鼓のひびきわたるプラットホームの人波のなかで、小野さんは王さんをみつけようとあせっていたが、どうやらみつけてしっかりと抱きあった。
歌ごえとスローガンを叫ぶ声、〈再見〉(さようなら)の声におくられて列車はゆっくりとホームを離れた。窓から首を出してみると、送るもの送られるものの振りつづける手がみえるばかりだ。日本の若い友人たちの頬には涙が光っていた。
武漢 9月1日 (水)
晴
列車は京漢(チンハン)線をひた走りに走る。
朝日がまぶしいほど車内に射しこむ。果しなくひろがる華北平原の美しいながめが車窓を横切ってゆく。南方コースの旅の第一日がはじまるのだ。
北京での一週間は、ぎっしりつまったスケジュールに追われ、昨夜もまた駅で歌い踊った日本の友人たちはさぞかし疲れているにちがいない。そんなことを考えながら友人たちの車両をそっとのぞいてみることにする。するとどの車両の友人たちも休息どころか、武漢についてからのスケジュールをねったり、ノートの整理や友への便りを書くなどあいかわらず忙しそうだった。
八時頃に黄河(ホワンホー)の鉄橋を渡る。もえる朝日をバックに流れる黄河の流れはまったくすばらしい。日本の友人たちは窓にとびついてシャッターを切る。誰かが〈東方紅〉を低い声で歌うのが聞こえた。
夕方、列車は武漢につく。武漢の若もの一五〇〇人が腰鼓をうち鳴らし、獅子舞いを演じて出迎えている。盛大な出迎えだ。
武漢 9月2日 (木)
晴
午前中は二手にわかれて武漢大型機械工場と肉類加工工場を参観し、午後は揚子江(ヤンツーチヤン)渡河をおこなう武漢の若ものたちとの交流だった。
揚子江大鉄橋を見物した日本の友人たちは三時半に江岸につく。江の上空には赤やみどりの風船が〈日本人民の反米愛国正義の闘争を支持する!〉〈中日青年友好万歳!〉のスローガンをつけて浮かんでいる。あらしのような拍手とドラや太鼓のひびきわたるなかをぬって、日本の友人たちは色とりどりの旗で飾られた二隻の汽船に乗り込む。それを合図に、信号弾がうちあげられ、二〇〇〇名の青少年の揚子江渡河がはじまる。
まっ先にとびこんだのは儀仗隊だ。中日青年友好大交流のマークをぬいとった大旗が先頭をきる。そのあとは整然とならぶ四〇の赤旗がつづき、それにつづいて泳者は三〇人が一隊となり一糸乱れず波をきって対岸へすすむ。日本の友人たちをのせた汽船のわきを泳ぎぬける数十名の少年たちは、歌をうたい、手をふってあいさつをおくった。江上に浮かぶすべての汽船もいっせいに汽笛をならす。日本の友人たちはさかんに拍手をして〈日中友好万歳!〉〈団結してアメリカ帝国主義を打倒せよ!〉と叫んだ。
六〇〇〇メートルの川を泳ぎわたった武漢の青少年は、つぎつぎに浜江(ピンチヤン)公園に上陸した。日本の友人たちは、みごとに揚子江の天険を征服した若ものたちにこころから祝いのことばをおくった。泳者たちは日本の友人たちの汽船につめかけ、固い握手をかわし、バッジを交換し、署名しあった。平和友好団体青年代表団の佐藤富士雄さんは紙をとりだして、わずか一二歳で泳ぎわたった葉蘭蘭(イエランラン)さんに、日本の子供にやるのだから何か書いて欲しいと頼んだ。葉蘭蘭は、花をくわえたハトを二羽えがき、〈中日青年友好万歳!〉と書きそえた。勤労者演劇協議会代表団の山室啓爾団長は、旗手をつとめた泳者のひとりをつかまえて「揚子江渡河の成功おめでとう! みなさんの壮挙に敬意を表します。これは単に体をきたえるということだけでなく、意志をきたえることにより大きな意義があると思います。これほど広い川の激流を泳ぎわたったのはみなさんの闘志をしめすものです。整然と隊列を組んですすんだのは、みなさんの団結と組織性を物語るものです」といった。
渡河にくわわったすべての泳者に、中日青年友好大交流のマークと揚子江大鉄橋を図案としたメダルがおくられた。泳者たちはまたその金色にかがやくメダルを日本の友人におくった。武漢水利電力学院にまなぶ女子学生の呉忠坤(ウーチユンクン)さんは、メダルを日本の女性のくびにかけ、しっかり相手の手を握りしめながら「わたしたち両国の人民、青年の友誼が揚子江の流れのようにいつまでもつきないようにしましょうね」といった。
夜は灯火の照り映える労働者文化宮で、盛大な夜のつどいが開かれた。出席者は四〇〇〇余名もあった。会場には文化宮の礼堂、広場、文芸ホール、遊芸室、球場があてられた。日本の友人たちは、武漢市長の劉恵農(リユウホエイノン)氏にともなわれて会場に入った。礼堂で、日本の友人は武漢市の若い芸術家とステージにたってかれらの出し物をひろうした。広場では、労働者や学生たちが客をまえに歌い踊った。勤労者演劇協議会代表団の中村喜長、岡野和夫、鶴ケ谷恵子さんたちは、日本で知り合った有名なオペラ歌手の王玉珍(ワンユイチエン)さんと再会した。旧友との再会は三人にとって思いがけないよろこびだった。王さんといっしょにならんだ三人は広場で日本の民謡〈木曽節〉をうたい、ついで中国語で〈社会主義好〉をうたった。四人の合唱は中日両国の若ものからはげしい拍手をおくられた。広場を埋める両国の若ものたちは、友情をたたえて歓呼した。
夜のつどいは深夜までつづき、歓をつくして散会した。
武漢 9月3日 (金)
晴
きょうは、ホテルで王玉珍さんと文芸問題について座談会をする数名をのこして、ほかは〈二·七〉記念館を参観する。
〈二·七〉記念館は、四二年まえ、中国共産党の指導のもとに中国鉄道労働者が敢行した反帝反封建の大ストライキを記念してたてられた革命史跡陳列館だ。日本の友人たちは、記念館で、〈二·七〉ストにくわわった労働者の張士漢(チヤンシーハン)さん(八〇)に会った。張さんは、帝国主義と反動派を相手にねばり強くたたかった当時の模様をくわしく語った。老人は話しながら服をぬぎ、背中にのこる傷あとをみせた。それは反動派の兵隊と警官になぐられたときのものである。強暴な敵をおそれずたたかい抜いた張老人の革命的精神に日本の若ものたちは、ひどく心をうたれたようだった。かれらは老人に記念の品をおくり、〈二·七〉記念碑をバックに老人と記念撮影をした。
昼間は武漢の風致地区―東湖(トンフー)に遊ぶ。東湖は水陸一〇〇平方キロの面積をしめる湖の公園。ひろがる湖水と深い木立、その間に楼閣が点在し、ながめはひじょうに美しい。日本の友人たちは長天楼(チヤンテンロウ)で昼食をとり、食事のあとは、泳ぐもの、みどりの芝生に身を横たえて休息をとるもの、柳の土堤を散歩するもの、ボートに身をゆだねて景色をたずねるものなど、思い思いに東湖を楽しんだ。
東湖に遊んだ一行は武漢大学、華中工学院、湖北(フーペイ)芸術学院を参観し、大学生と交流した。かつて日本に留学したことのある武漢大学副校長何定華(ホーテインホワ)氏は、日本の若い友人たちをたいへん親切にもてなした。平和友好団体青年代表団と全日本学生寮自治会連合会代表団は、〈アメリカ帝国主義を打倒せよ!〉〈日中両国人民と学生の団結万歳!〉としるした赤旗を武漢大学におくった。
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