団結と友情のひと月

2023-05-23 16:57:00

杭州 9月11日 (土)

 

日本の友人たちはきょうも杭州で華豊(ホワフオン)製紙工場や鳳凰山(フオンホワンシヤン)労働者サナトリウム、浙江美術学院、安吉路(アンチールー)小学校などを参観する一方、杭州各界の人びとにひろく接した。柳浪聞鶯公園にたつ〈日中不再戦〉記念碑もみた。この記念碑は、日本の岐阜市民と松尾吾策市長の発起で杭州市と岐阜市にそれぞれたてられた侵略戦争反対の碑で、一九六三年に完成したもの。岐阜出身田塚のつた子さん(新少年団全国センター代表団副団長)は碑をまえにして語った。「この碑文にあるように、日本の青少年、児童、すべての日本人は侵略戦争に反対しています。いま日本人民のふたつの敵―アメリカ帝国主義と日本の反動派は、日本軍国主義の復活をたくらんでいますが、これに反対する日本人民のたたかいは、力づよい盛りあがりをしめしています。侵略戦争に反対し、平和をめざす運動が日本で新しい高まりをみるものと、わたしはかたく信じています」

碑のまえで日本の友人たちは腕を組んで、アメリカ帝国主義の日本の軍事基地化につよく反対する歌〈ゴー·ホーム·ヤンキー〉を合唱した。

杭州を離れる時間が迫ってきた。西湖をまわるもの、蘇堤(スウテイ)でつり糸をたれるもの、スケッチをするもの、日本の友人たちは、名残りをおしんでそれぞれ残りすくない時間をすごした。

夜の九時、上海につく。三つのコースにわかれて活動した日本の友人たちは上海で合流した。

上海での一週間

花に託して

九月一一日、夜の上海(シヤンハイ)駅はわきたっている。東北地方、西北地方、南方各地を訪れていた日本の若い友人三〇〇名がこんどの旅の最終訪問地の上海に到着したからだ。

列車から降りたった日本の友人のひとりびとりに花束がおくられる。香りの高い花束。その花は二日まえに郊外の人民公社の社員が花園でつみ、水につけておいたものである。つんだときはまだツボミだったが、いまはみごとにひらいている。上海ラジオ工場で働く若い女工の羅恵君(ローホイチユン)さんは、〈グラフわかもの〉代表団の高橋千代子さんに花束をおくり、「わたしたちの工場の労働者を代表してお迎えにきましたの……」とよろこびに弾む声でつげた。東安(トンアン)二村小学校の教師陳霞清(チエンシヤチン)さんは人垣をかきわけてまえに出、青年文化代表団の団員に花束をさしだした。「ほんとうに待ちかねていましたわ。きょうは父や母から一家を代表してお迎えにでるようにといわれましたの、学校の生徒からもみなにかわって出迎えてくれるようにといわれまして……」と、親しみをこめていった。

感動した日本の友人は、ノートをとりだして「日中団結」の四字を力づよい筆跡で書いて答えにかえた。法華(フアホワ)鎮幼稚園の保母をしている若い王巧妹(ワンチヤオメイ)さんはこころをこめて「安保」体制打破新劇人会議青年代表団の一員に花束を手渡した。日本の友人も赤、黄、黒の三色にいろどられた長方形のバッジを王さんの胸につけ、たちまちふたりは筆談をはじめた。日本の友人は万年筆とノートをとりだすと、「親愛的中国朋友、您好!」(親しい中国の友人、今日は)とすばやく書いた。「親愛的日本朋友、您好、我們歓迎您!」(親しい日本の友人、ようこそおいでなさいました。わたしたちは心から歓迎します)と王さんがしるした。

日本の友人たちを乗せたバスは天目(テンムー)路、西蔵中(シーツアンチユン)路、南京東(ナンチントン)路を通りすぎる。道ゆく人びとも振りかえってあいさつをおくる。「歓迎您們!」と声をかけるものもいる。出勤、退勤途上の労働者、市内に野菜を運んできた農民、家からとびだしてきた人びと。そのなかには、老人や子供の姿もみられる。家の窓からはたくさんの人びとが手をふっている。それに答えて日本の友人たちは「您好!」「友好万歳!」と中国語で叫ぶ。

全上海の若ものたち、いや全上海の市民が日本の若い友人に友情にあふれる手をさしのべていた。

語りつくせぬ思い

日本の若ものたちは上海に一週間滞在した。その間、かれらは上海の若ものたちと共に歌い、踊り、膝をまじえて語り合った。巨大な一万二〇〇〇トン水圧プレスのまえで、豊作をつげる綿畑で、さんさんと陽光のふりそそぐ校庭で、埠頭で、商店で、町の中で……人の心をうたずにはおかない友情の詩がうたいあげられていった。

夕日のさしこむ国営綿紡績第七工場の会議室。そこでは紡績労働者たちが日本の友人たちとうちとけて話し合っていた。許小妹(シユイシヤオメイ)さんは身内のものに話すように、解放まえの悲惨な境遇と現在の仕合わせな生活を語った。かの女は九つのときからこの工場で働いた。寝起きする場所は草ぶきの小屋だったし、労働時間は一日に一六時間だった。それだけ働いても自分ひとりの生活もささえられなかった。だがいまはアパートに住み、一家八人がたのしく暮らしている。いぜんのかの女は、自分の名前さえ書けなかったが、いまは政治的地位も高まり、上海市人民代表にえらばれ、読み書きもできるようになった。

解放前のかの女の生活を聞いて日本の友人たちはたいへんこころをうたれたようだった。一九歳になる日本の友人は自分の境遇とひきくらべてつぎのように話した―アメリカ帝国主義の支配のもとにある日本人民の生活はとても苦しいんです。わたしは家が貧しいので一五のときから店員になって家計を助けていました。でも、仕事がつらく、病気にかかりました。すると、主人はさっそくわたしを店かち追いだしてしまいました。わたしは勤め口を失ったのです、と。会議室は沈黙につつまれた。だれもが思いにふけっているのである。やがて先進生産者の李素蘭(リースウラン)さんがたちあがった。「解放まえ、わたしたち中国の姉妹たちはあなたとおなじ不幸な境遇におかれていました。そしていまも、アメリカ帝国主義に不法占領されているすべての場所で、幾千幾百万の人びとがおなじ境遇にあえいでいるのです。仕合わせな生活をかちとるために、わたしたちは肩をならべてすすみ、アメリカ帝国主義をかれらの不法占領しているすべての場所から追いだしましょう」と頬を赤くしてのべた。日本の友人たちもみんな席をたって李素蘭さんと固い握手をかわした。


中国が自力でつくった一万二〇〇〇トンの水圧プレスを参観
中国が自力でつくった一万二〇〇〇トンの水圧プレスを参観

歌声は結ぶ

中日両国の音楽家は上海合唱団のホールで顔をあわせた。うたごえ代表団の楠本和彦団長は、一九六一年に日本合唱団の一員として中国を訪れ、上海合唱団の人びとといっしょに舞台にたち、〈幸福河(シンフーホー)大合唱〉をうたったことがある。また、そのときに〈社会主義好〉(社会主義はすばらしい)などの歌をならって帰り、うたごえ祭典で歌った。こんど上海につくと、夜のつどいで、上海合唱団の人びとと共に〈仕合わせの歌〉〈全世界のプロレタリアート団結せよ〉などを歌った。歌ごえを武器として共同闘争をすすめる親しい戦友がふたたび顔をあわせたのだから、まったく兄弟のようだった。かれらはともに歌い、またうたごえ運動についての経験を語り励ましあった。

日本の友人たちは、日本でのアメリカ帝国主義とのたたかいの様子を中国の若ものにつたえた。それはまったく感動的な話だった! 日本の友人たちは、きびしい敵の警戒をものともせずにアメリカの軍事基地をとりまく鉄条網を突破して、歌のしおりを基地で働く労働者にくばり、いっしょになってアメリカ帝国主義打倒の歌を高らかにうたった。また、反動派の銃剣と棍棒にひるまずかれらはうたごえ別働隊をつくり、デモ隊の先頭にたって歌の指揮をとり、人びとの闘志をふるいたたせた。また、あるうたごえ代表団員が失業の脅威にもめげず、かずかずの障害をつき破って大交流に参加するため中国にやってきた話を楠本団長が紹介すると、上海合唱団員はどっと駆けよってふたりの日本の友を固く抱きしめた。とくに上海合唱団員を感激させたのは、台湾(タイワン)解放をめざす中国人民のたたかいをあくまで支持する日本の友の真剣な気持ちだった。中間真由美副団長が、アメリカ軍が支配する沖繩の島で、山の頂に立って、台湾の山をのぞみながら、〈かならず勝利の旗を台湾にたてる〉を高らかに合唱したと語ったときは、上海合唱団員の多くは感激の涙を流した。司徒漢(シートウハン)上海合唱団団長は立ちあがって「われわれにたいする日本の友の支持に感謝します。われわれもまた、沖繩をとりもどす日本人民のたたかいをだんこ支持しります」とのべた。

幼年時代の住いを訪ねる

日本の友人のひとり―赤沢敬之さんは勢いこんで虹口(ホンコウ)区にでかけた。幼い頃に住んでいた家と学んだ学校をたずね、ついでにいぜんの隣人を訪問するのが目的だった。

龔家宅(コンチヤチヤイ)路に一歩足をふみいれたとたん、町内の人びとが拍手で迎えてくれた。かつて赤沢さんが住んでいた聚興里(チユイシンリー)三号にゆくと、いまそこに住んでいる周順宝(チヨウシユンパオ)さんは出勤したあとで、奥さんの丁菊妹(テインチユイメイ)さんがよろこんで迎え入れてくれた。赤沢さんは、「きょう、ここに来れたのでとてもうれしいんです。みなさんのなかにぼくを知っている方はいませんか」とたずねた。丁菊妹さんは赤沢さんの顔をまじまじとみながら、「ああ、まだおぼえていますよ、あなたにはふた児の妹さんがいたでしょう」と笑顔をむけた。「ええ、そうです」

「こんどこちらに来るとき、父からみたさんによろしくいってくれといわれました」と赤沢さんはいった。

赤沢さんは、解放まえにこのあたりに住んでいた人たちのその後の様子などを聞かせて欲しいと頼んだ。

隣人の黄翠娣(ホワンツイテイ)さんは、ふるい社会でなめた苦しみを話した。二歳のときに父と死に別れた黄さんは生活に追われて幼いときから働きにでていたが、解放で自由をとりもどし、ふたりの子供は小学校にあがっているという。そのあとをうけて丁菊妹さんが、「男の子が四人、女の子が二人います。学校にいっているのもいるし、働いているのもいます。主人は化学工業局に勤めているんですが、生活はひじょうに楽です。いまはものの値段がまえとちがって安いし、値段が上がらないので、生活は保障されているのですよ」と説明した。赤沢さんはかみしめるように話を聞き、しきりにうなずいていた。「日本に帰ったら、みなさんに心からもてなしていただいたこと、いぜんとちがって仕合わせに暮らしておられることなどを父や母に話します。そして、社会主義の新中国を建設しておられるみなさんの雄々しい気概を日本人民にかならずつたえ、日中国交回復のためにたたかうことを約束します」と赤沢さんはいった。

かつての隣人に別れをつげた赤沢さんは、なつかしい小学校にいった。そこはいま華東(ホワトン)師範大学付属中学校にかわっていた。学校の様子もかわっていた。もとの校舎の向いに解放後に新築された大きな校舎が二棟もたっているのだ。

帰途についた赤沢さんは、「わたしのいたころとみかけはそうかわっていないのですが、住んでいる人たちの心構えがすっかりかわっているのに心をうたれました」と興奮した口調で語った。

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