団結と友情のひと月
武漢 9月4日 (土)
晴
武漢鋼鉄公司で一日をすごす。
武漢鋼鉄公司は、解放後に新設された大鉄鋼コンビナートのひとつ。従業員は三万七〇〇〇余名。
日本の友人たちは、製鉄所、製鋼所、圧延工場などの主な職場を参観したあと、従業員の住宅区をおとずれて労働者の福祉施設をみ、労働者の家庭をたずねた。この日の鋼鉄公司は中日友好の熱気にあふれていた。日本の友人たちの通る道の両がわには、さまざまな色の小石をならべてつくった中日青年友好大交流のマークや中日両国人民の友好と団結への願いと共同の敵―アメリカ帝国主義に反対するスローガンの文字がみられた。これらはみんなここの労働者がこころをこめてつくりあげたものだ。職場の入り口、高炉の上、足場などには日本の若い友人を歓迎するスローガン入りの赤いたれ幕がさがり、いたるところに友好大交流のポスターがはられていた。職場のかべ新聞も歓迎の特別号にあてられていた。日本の友人たちのゆく先ざきで〈友好万歳!〉〈友好万歳!〉の歓呼の声と熱烈な拍手がおこった。日本の友人たちは、いくつかのグループにわかれて、武漢の鋼鉄労働者と座談会をひらき、互いに興味をもっている問題について心おきなく語りあった。
東京で二〇数日にわたってたたかい、ついに旅券を入手した青年文化代表団の一行一六名がきょう午前一〇時半に専用機で武漢につき、南方コースの各青年代表団に合流することになった。かれらは、宿舎でほんのしばらく休息をとったあと、長旅の疲れもいとわず、さっそく武漢鋼鉄公司での交流にかけつけてきた。そして労働者のために日本の古典舞踊〈さくら〉、民間舞踊〈花笠おどり〉、琴の独奏をひろうした。これで多彩な交流はいちだんと色どりがそえられた。
夜の一一時半、武漢をあとに長沙に向かう。駅ではまた感動的な情景がくりひろげられた。
長沙 9月5日 (日)
晴
武漢をあとにした日本の友人たちは、こんどは毛(マオ)主席のふるさとの土を踏むのだとひどく興奮していた。
午前八時、専用列車はバクチクとドラ、太鼓の音につつまれる長沙駅にゆっくりとすべりこんだ。長沙の若ものたちが歌とおどりでさかんな出迎えだ。
午後、湖南(フーナン)省副省長華国鋒(ホワクオフオン)氏、長沙市長王群伍(ワンチユンウー)氏が日本の若い友人たちと会見し、華国鋒副省長から湖南省の概況についての話がある。
そのあと、長沙市労働者文化宮での交流のつどいに出席する。両国の若ものたちは歌い踊り、心ゆくばかり友情を深めあった。夜は湖南省民間歌舞団が、とくに日本の友人たちのために大歌舞劇〈風雷頌〉を演じた。
韶山冲 9月6日 (月)
晴
長沙をあとにした一行は、バスに二時間半ほどゆられて毛主席生誕の地―湖南省湘潭(シヤンタン)県韶山冲(シヤオシヤンチヨン)に到着する。ここは細長い谷間になっており、韶峰(シヤオフオン)が正面にそびえ立ち、まわりにたくさんの丘がある。毛主席はこの景色のよい、物産ゆたかな村で、幼年時代と少年時代をすごした。
一一時、日本の友人たちは毛主席の旧居を参観する。建物はその当時のまま旧状がたもたれている。家の中には、かつて毛主席の使った品じな、農具などが展示されてある。一八九三年一二月、毛主席はこの家で生まれた。父親の毛順生(マオシユンシヨン)さんは勤勉で質素な農民だったし、母親の文(ウン)氏も善良な農婦だった。毛主席は六つのときから野良仕事にでた。一六歳のとき、はじめて故郷をあとにした毛主席はよその土地にまなび、国を救い、人民を救うための真理をさがしもとめた。毛主席の家庭は革命的な家庭である。一九一九年に父母が世を去ると、一家のものは毛主席の影響をうけてみな革命に身を投じた。そのご、一家のうち六人までが中国革命のために生命をささげた。
日本の友人たちは、北京で毛主席に会い、こんども毛主席の旧居をたずねてとくに親しみを感じたようすだった。毛主席の旧居のすべてにつよい興味をしめした。説明員は、幼年時代、少年時代の毛主席がいかに労働を愛し、勤労者を愛し、勉学にいそしんだかをエピソードをあげて述べる。日本の友人たちは、毛主席への限りない尊敬の念をこめて、説明する人のことばを真剣にノートした。毛主席の旧居のちかくから小石や木の葉や竹の葉などをとってきて永久の記念にする友人もすくなくなかった。青年文化代表団の伊藤知己さんは、旧居の各部分をカメラにおさめた。そのあとで伊藤さんはもういちど各部分をとった。「毛主席の旧居の写真を中国に来れなかった友人たちにみせるのです」と伊藤さんはいった。全国化学産業労働組合共闘会議代表団の今村太一さんは、「偉大な指導者毛主席の旧居をたずねることができたのは日本の青年の誇りです」と語った。
午後、友人たちは韶山陳列館を参観したり、韶山の若い農民と交歓したり、学生と座談会をもったりした。
韶山から長沙に帰ったのはすでに家々の灯火がまたたくころだった。宿舎でしばらく休息をとったあと南昌へ向かう。
南昌 9月7日 (火)
晴
南昌での第一日は、南昌「八·一」蜂起記念館参観、ついで江西(チヤンシー)共産主義労働大学での学生との座談会、交流会をもった。
江西共産主義労働大学は半農半読(働きながら学ぶ)の学校だ。学生は一万四〇〇〇余名、付属の農場は三五、林場は三一。学生はまなび、かつ働く。学生たちは、自分たちがタネをまき、取入れた落花生をだしてもてなし、果樹園や綿畑へも案内してくれた。
廬山 9月8日 (水)
晴のち曇のち雨
早朝、南昌をたち避暑地として名高い廬山(ルーシヤン)に遊ぶ。海抜一五四三メートルの廬山は、江西省北部の鄱陽湖(ポーヤンフー)と揚子江の間にそびえている。まず汽車で九江(チユウチヤン)までゆき、それからバスでゆく。登山道路は三〇余キロ、山肌をぬってぐるぐるとまわり、一〇〇あまりのカーブをえがいて廬山の中心―牯嶺(クーリン)につく。
牯嶺鎮の住民とここで休養をとっている労働者は、柏の枝でアーチをつくり、かざりちょうちんをそれにかけて日本の友人を迎えてくれた。その盛大な歓迎ぶりはまったく予想外だった。
ここはたしかに涼しすぎる。山の下では薄い夏服でも汗がひどくでるというのに、ここではセーター、いや、綿入れの服さえ必要なくらいだ。宿舎には山の上の樹木にとりかこまれた花園をおもわせる別荘があてられた。昼食のあとは、みんな散歩にでる。牯嶺のまわりには、労働者の休養所やサナトリウムがたくさんたっている。その建物はいずれも美しい。村の道はさほど広くはないが、とても清潔である。道をゆく人は避暑か休養のためにきている勤労者がほとんどだ。
夜、日本の友人たちは江西省歌舞団の舞台を見物。しとしとと降る雨の音を聞く。
廬山 9月9日 (木)
細雨のち曇
朝起きると、細雨が降りつづいている。山道はひどくすべる。そこで、遊山の計画をとりやめて、労働者の休養所を参観することになった。だが主人側の廬山管理局からその旨がつたえられたころから、たれこめた雲が消え、天気がよくなった。みんな大よろこびで、さっそく、最高峰の含鄱口(ハンポーコウ)めざして出発。途中の奇峰、峻嶺がすばらしいながめだ。ところが、いざ含鄱口へのぼりにかかると、濃霧がたちこめ、あっという間に廬山全体が白い霧の海に没した。日本の友人たちは同行の中国の若ものと頂の望鄱亭(ワンポーテイン)で、歌ったり踊ったりして霧の晴れるのを待った。
いくら待っても廬山は姿をみせてくれない。主人側は、「これも廬山の絶景のひとつです」と笑いながら日本の友人に説明していた。
どうやらおてんとうさまは、わざと意地悪をしているようだ。望鄱亭をくだってくると、群山に太陽がそそぎはじめた。一行は名所のひとつ―仙人洞へいそぐ。これでムダ足はまぬがれ、雲海蒼松の奇景を仙人洞で眺めることができた。その眺めは、
暮色蒼茫看勁松
乱雲飛渡仍従容
天生一個仙人洞
無限風光在険峰
暮色蒼茫(ほしよくそうぽう)たるなかに勁(つよ)き松(まつ)を看(み)る
乱雲(らんうん)飛(と)び渡(わた)れどもなお従容(しょうよう)
天(てん)が生(つく)りし一個(この)仙人洞(せんにんどう)
無限(むげん)の風光(ふうこう)険峰(けんぽう)に在(あ)り
と毛主席が詠じたとおりであった。
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