団結と友情のひと月

2023-05-23 16:57:00

新少年団全国センター代表団 茨木ふみ団長 

北京での一週間

心あたたまる歓迎

胡同(フートン)の奥まった家いえの庭から、うっすらと色づいた実をつけたなつめの木が、澄みきった空に伸びている。こずえをさわやかな風が渡っている。すばらしい北京(ペイチン)の初秋の訪れである。通りでは、あちこちにはられた大きなポスターが人目をひいている。おなじ秋でも、ことしの北京には早くもうきうきした空気が流れている。国慶節にはよほど間があるというのに、いったいどうしたというのだろうか。中日青年友好史上に例を見ないほど多くの日本青年を一度に迎えるとあれば、北京が活気づいているのも無理はない。盛大な中日青年友好大交流がいよいよはじまろうとしているのだ。

どこからともなく、〈東京―北京〉の歌ごえがひびいてくる。工場や学校、公共機関では、大交流にそなえての出し物の練習に余念がない。夏休みで帰省していた学生たちも、はやめに学校へ帰ってきた。

西長安(シーチヤンアン)街の大通りに面した民族飯店(ホテル)では、日本からのお客さんをりっぱに接待するための従業員大会がひらかれ、相談がおこなわれた。食堂の炊事員さんたちは、日本料理の専門店である〈和風〉へ出かけて、料理のコツを習った。各階の服務員さんたちも、寸暇を惜しんで日本語の日用会話の猛勉強をつづけた。準備が一応終わったかにみえたころ、急に七階に、ある外国の客人を迎えることになった。三日の滞在であったが、日本の友人が到着するまでにあといくらの日数も残っていない。それまでにベッドのシーツ、椅子カバーなどを全部かえて、もう一度部屋をととのえてしまわなければならない。さて、どうしたものか? 七階の服務員さんたちは、毛(マオ)主席の「愚公山を移す」の学習をはじめて、困難にいかに対処するかを話し合った。準備が終わるまでは家に帰ってもおちつかないといって、だれも休もうとはしなかった。こうして、もともとの予定よりいっそうりっぱに準備がととのえられた。

首都自動車公司では、日本の若い友人たちを乗せるバスやハイヤーの厳密な車体検査をはじめた。安全運転に責任をもてばよい運転手さんたちも、それだけでは満足しないで、艤(ぎ)装工に早変わりして、窓のカーテンを直したり、床に油をひいたりして、車内の改装にも力を入れた。記念切手の発行も準備され、花火工場では特製花火をつくり、記念バッジも用意され、〈中国と日本の青年は団結しよう〉という歌まで創作された。

北京のまち全体が歓迎一色にぬりつぶされ、市民、とくに青年たちは、心をときめかしながら日本の友人たちの到着を待ちわびた。広州(クワンチョウ)で日本の青年を迎えるために、一四〇名あまりの接待員が八月一二日に北京を出発していた。

八月二三日、待ちに待った日本の青年がやってきた。この日の北京駅は、色とりどりの旗やテープ、花束をもった二〇〇〇の若ものたちで埋められていた。地鳴りのような拍手と歓声がホームをゆさぶる中を、友誼を満載した列車が静かにすべりこんだ。歌ごえ、にぎやかなドラや太鼓にむかえられて、ホームに降りたった日本青年のどの顔もよろこびにほころびている。とうとう北京に着いたのだ!

用意されたバスに乗って、友人たちは、駅前から天安門(テンアンメン)前をとおり西単(シータン)の民族ホテルへとむかった。すれ違うバスの中や道を歩いている人びとまでが、手をふって歓迎する。文字どおり町をあげての歓迎ぶりだ。民族ホテルの玄関前では、たくさんの従業員が爆竹を鳴らし、ドラをたたいて出迎えた。

北京に一歩を印した日本の友人たちは、歓迎のるつぼにすっかり感動し、中日友好のたくましい力を感じながら、若い抱負とあらたな決意に顔をほてらせていた。

友好のうずの中で

日本の友人たちは、疲れの色さえ見せず、あくる日からすぐにエネルギッシュな活動をはじめた。二四日は、中国革命博物館、中国人民革命軍事博物館、民族文化宮などの参観、北海(ペイハイ)公園、景山(チンシヤン)公園での中国青年との交流である。北海の少年科学技術館では、無線操縦の大きなロボットまでが、遠来の客をねぎらうために花束をふっていた。中国の少年を相手に、手ほどきをうけながらなれぬ手つきで中国将棋のコマをすすめている「おじさん」もいた。新少年団全国センター代表団を迎えた景山の北京市少年宮では、日本と中国の少年たちの心をこめた贈り物―絵と版画の交換がおこなわれていた。


北京の少年少女たちも目本のお兄さん、お姉さんを心から歓迎した。(景山公園にて)
北京の少年少女たちも目本のお兄さん、お姉さんを心から歓迎した。(景山公園にて)

青年たちは、軍事博物館で、撃ち落とされたU―2型機や無人高空偵察機の哀れをとどめた黒い残がいにカメラをむけ、興味ぶかく眺め入っていた。とくに日本青年の興味をひいたのは、延安(イエンアン)で日本人反戦同盟を指導した野坂さんの活動の記録で、なかでも毛沢東(マオツオトン)主席が野坂さんにあてた手紙は青年につよい印象をあたえているようだった。中国労働者の一九二五年の〈五·三〇〉大ストライキのとき、日本労働組合評議会が声明をだして、中国労働者の反帝闘争を支持したその貴重な記録を声をだして読んでいる青年もいた。

北京市いっぱいに友好大交流のうずがまいていた。乗り合いバスに乗っても、胸に大交流のバッジでもつけていようものなら、さっそく日本の友人と間違われ、みんなが争って席をあけるという情景もみられた。中日友好の将来が、まさにこれら両国青年の肩に担われている以上、若ものたちに寄せられた大きな期待と配慮も、当然といえば当然のことだった。

八月二五日、天安門広場にぞくぞくと車がつめかけていた。中国歴史·革命博物館とむかい合った人民大会堂の壮麗な建物が、切れ目のない人の流れを吸いこんでいる。イヤホーンつきの一万の座席をもつ大会場に若さがいっぱいあふれている。まぶしいほどの照明が、いっそうその空気をひきたてている。全員がたちあがって拍手をはじめる。日本の青年代表の入場だ。二階、三階の人も身をのりだすようにして手をたたいている。手に手に小旗やネッカチーフを振りながら日本青年が入ってくる。全員が一階の前の方の席につくまでかなりの時間がかかったが、歌ごえと拍手は切れ目なく熱狂的に会場にこだました。壇上には、日本の各団長をまじえて七〇数人が並ぶ。中日友好協会の趙安博(チヤオアンポー)秘書長の開会宣言とともに、日本青年を歓迎する北京青年一万人の大会がはじまった。

中国青年代表の歓迎のあいさつにつづいて、日本の各団長がこもごも壇上にたった。アメリカは沖繩から出てゆけ!アメリカは台湾(タイワン)から出てゆけ! ベトナム侵略戦争をただちにやめろ! 大会は、中日両国人民の共同の敵―アメリカ帝国主義を指弾する叫びでひとつに溶け合った。

休憩後、舞台でははなやかな出し物がはじまった。北京駅頭での熱っぽい歓迎風景が舞台の上に再現された。中国の若い芸術家たちが、日本の友人を迎えるためにつくった舞踊劇〈さくら〉も演じられた。日本のうたごえ代表団がすばらしいたたかいの歌を聞かせてくれた。

歓迎大会のもようは、ラジオやテレビでも中継放送されていた。各新聞も、大きな紙面をさいて大交流について毎日報道していた。友好大交流の波紋は、日一日と大きくひろがっていくようだった。

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