団結と友情のひと月

2023-05-23 16:57:00

歴史のひとこま


中国革命博物館で、1921年の中国共産党成立当時の説明に熱心に聞き入る青年たち。
中国革命博物館で、1921年の中国共産党成立当時の説明に熱心に聞き入る青年たち。

二六日の午後、「中国共産党と政府の指導者が会見します」という連絡が、日本の青年代表に伝えられた。一行が人民大会堂に着いたのは午後三時、まず二三名の団長が「陝西(シヤンシー)の間」へはいった。そこでにこやかにほほえみながら迎えにでてくれたその人こそ、中国人民の偉大な指導者毛沢東主席その人であった! 劉少奇(リユウシヤオチー)、周恩来(チヨウエンライ)、鄧小平(トンシヤオピン)、彭真(ポンチエン)、賀竜(ホーロン)、康生(カンシヨン)、郭沫若(クオモーロー)、劉寧一(リユウニンイー)氏など、党と政府のおもだった指導者もいっしょだった。

みんなは、おどろきと興奮の表情で毛主席をじっと見つめていた。

毛主席がうれしそうに、二三名の団長に歓迎のことばをのべた。

毛主席や他の指導者が日本青年代表の全員と会うまえ、待っていた日本の青年たちは、どの指導者と合うのか、まだだれも知ってはいない。「周恩来総理かな?」「いや、廖承志(リヤオチエンチー)さんだろう」とみんなはさかんに話しあっていた。そのとき毛主席や党と政府の指導者がゆっくりとはいってきた。青年全員が一瞬息をのんでしまった。静まりかえった数秒がすぎた。つづいてせきを切ったように拍手がおこった。毛主席がみんなの前にきたとき、一部の青年が、中国語で「毛主席万歳!」と叫んだ。多くの声がそれに和した。


北京国営第二綿紡績工場で、幼稚園の子供たちと歌いおどる日本の青年たち。
北京国営第二綿紡績工場で、幼稚園の子供たちと歌いおどる日本の青年たち。

毛主席は手をふって青年代表たちにあいさつした。数分間もつづいた歓呼がおさまってから、やっとシャッターがきられた。毛主席はたちあがって、ふたたび手を振ってみんなにあいさつした。そのときだ。それまで整然と列をなしていた人の群れがどよめき、急にくずれると、なだれをうったように毛主席のところへおし寄せた。握手をもとめる熱っぽい無数の手が、いっせいにつきだされた。毛主席のあたたかい手が青年たちの手をしっかりとにぎった。


中国舞踊学校の陳列室には、日本からの贈り物がたくさん並べてあった。
中国舞踊学校の陳列室には、日本からの贈り物がたくさん並べてあった。

興奮は、帰りのバスの中でもつづいていた。

その夜、ホテルでは、毛主席と会ったときの興奮を日記にしるす青年や、日本の友人たちにいっこくも早くこの日のできごとを伝えるために手紙を何十通と書いている青年の姿が見られた。

きずこう友誼の長城を

前の日、北京市の工場や学校、公共機関、人民団体、病院、近郊の人民公社などをたずねて、交流をおこなった日本の青年代表は、二八日は、朝から北京の青年たちといっしょに八達嶺(パーターリン)の万里の長城へとむかった。長城は折悪しく霧雨にけむっていたが、若ものたちは手に手をとって長城をのぼった。若わかしい情熱をはばむことのできるものはなにもないのだ。悪天候にもかかわらず、長城には新しい生命がよみがえっているようであった。青年たちの意気ごみにおされたのか、やがて霧雨も退散した。カラリと晴れわたった空の下に、金色に輝く長城全体が美しい姿を見せた。期せずして〈東方紅〉の歌ごえが、むこうの烽火台からわきおこった。歌の輪はだんだんと大きくなりながらこちらに伝わってくる。青年たちは、通訳や手まねをまじえた筆談をつうじて、おたがいの友情を万里の長城に託して語り合った。

そのむかし、外敵の侵略を防ぐために築かれた長城で、中国と日本の青年たちは、それにも劣らないほど堅固な友誼の長城を築き上げることを誓い合っていた。

二九日は、ちょっと変わったところで、はちきれるような若さとエネルギーにあふれたスポーツ交流がおこなわれた。北京体育館では、中国一流のスポーツ選手による競技が演じられた。室内プールや野外競技場では、陸上競技、水泳、卓球、バレーボールなどの友好試合がおこなわれた。競技は両国青年が混合チームをつくったり、自由に組んだりして好きな種目を選ぶやり方がとられたので、友好と団結を強める上でいっそう有意義だったようだ。スタンドを埋めた若い数千の観衆は、どんな小さな友情のシーンにもこころからの拍手を送っていた。

短かかった一週間が過ぎた。北京での最後の夜は、中山(チユンシヤン)公園での園遊会でかざられた。

八月三〇日、人民大会堂のひと間で、ひらかれた中日友好協会の廖承志会長の招待宴には、陳毅(チエンイー)副総理も姿を見せ、「偉大な民族である日本人民は、全世界人民のアメリカ帝国主義反対のたたかいの前線にたっています。日本民族の前途はかならずかがやかしいものになるでしょう」とあいさつした。

招待宴のあと、廖承志会長は、日本の青年たちと腕を組んで夜の中山公園へでかけた。公園は、三万の若ものたちの熱気にたぎっていた。友好とたたかいの歌ごえが、うっそうとした緑の公園をゆさぶっていた。五〇もの踊りの輪が、日本の青年たちをうばい合いしている。


8月28日、両国の青年たちは、北京郊外八達嶺の万里の長城を参観した。
8月28日、両国の青年たちは、北京郊外八達嶺の万里の長城を参観した。

あちこちのにわか造りの舞台の上では、京劇や地方劇、曲技、人形しばい、映画などが上演され、大勢の人が見物していた。

四角な石造りの舞台の上では、大きな頭とたてがみをふりながら獅(し)子が舞っていた。玉乗りのみごとな芸であった。景気のいい音楽にのって、きらびやかなウイグルのおどりもひろうされた。一流の出し物である。

いちばん奥の中山堂の前では、ハッピ姿にねじりはちまきの威勢のいい若ものたちが、にぎやかにソーラン節をおどっていた。どこの代表団だろうかと思って、となりの学生にたずねると、中国の民族歌舞団だということだった。歌もおどりも堂にいったもので、以前訪中した〈わらび座〉の人たちから習ったものらしかった。中日青年の交流は、今にはじまったことではなかったのだ。

園遊会もたけなわのころ、夜空を花火がいろどった。あざやかな赤や紫が故宮の屋根を染め、ピョピョという鳥の鳴き声のような音がかわいらしく響く。仕掛け花火が、〈中日青年友好万歳〉という文字を浮きたたせる。感心しきったようなため息がもれる。ブラスバンドが演奏している〈東京―北京〉〈中国と日本の青年は団結しよう〉の調べもひときわ高くなった。花火とともに、園遊会の気分は最高潮に達した。

……北京での大交流は終わった。

北京の各新聞は、社説やいろんな記事をのせて、大交流にひじょうに高い評価をおくった。

『人民日報』紙は、「友誼をつよめ、ともにたたかおう」という八月二四日の社説のなかで、こんどの大交流は、「中日両国人民と両国青年の友好往来史でもはじめてのこと」であり、「両国青年と両国人民の友好関係の新たな発展である」とのべ、「アメリカ帝国主義と日本国内のもっとも反動的な勢力は中日人民の友好を破壊しようとしている」が、「中日友好はすでに強大な歴史の流れになっている」ので、「どんな力もそれを妨害し破壊することはできない」、「中国青年は日本青年としっかり団結して、両国人民の共同の敵アメリカ帝国主義をもうちやぶるため、アジアと世界の平和をまもるため、中日両国人民のすえながい友好のために、最後までたたかうであろう」と結んでいた。

(本誌記者)

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