団結と友情のひと月

2023-05-23 16:57:00

東北コース

自力更生の中国工業に目をみはる

朱明之(チユウミンチー)

九月一日、若い日本の友人たちが瀋陽(シエンヤン)についた。瀋陽第一工作機械工場で働く青年旋盤工の呂嘉恩(リユイチヤエン)さんは、つぎのような歌を日本の若い友人たちのためにつくった。

こがねの大橋をかけわたし

友情の苗木を心に植えて

反帝の松明をかかげながら

われらのよき未来を共に築こう

呂さんはこの歌を若い日本の友におくり、こんどの大交流にくわわれなかった日本の若ものに中国労働者の友情をつたえて欲しいと頼んだ。

こうした呂さんの気持ちは、幾千幾万の若い中国労働者が日本の若ものにいだく友情を物語っている。中日青年友好大交流にくわわった日本の青年代表団のうちの九つの団体は、中国の重要な機械工業都市―瀋陽と鋼鉄の都市鞍山(アンシヤン)を訪れ、老若二代の労働者からさかんな歓迎をうけた。

多くの日本の友人たちは「かつて日本軍国主義からひどい仕打ちをうけていた東北地方の人びとが、こんなに歓迎をしてくれるのは、中国人民がプロレタリア国際主義の精神にたっていることを物語っている。わたしたちは中国人民と永遠に友好をたもち、アメリカ帝国主義が日本軍国主義を復活させるのを許してはならないと思う」と語っていた。

参観の期間中、中国の労働者は日本の若ものと膝をまじえて語りあい、お互いの生活から仕事やたたかいの実情などを熱心に話しあった。だれもが旧知の間がらのようになんでも話しあっていた。歌うもの、踊るもの、署名しあうもの。それはみるものの心をうつ感動的な場面であった。

有名な労働模範の王鳳恩(ワンフオンエン)さん(瀋陽変圧器工場勤務)と金福長(チンフーチヤン)さん(瀋陽大型機械工場勤務)も若い日本の友人と会った。〈バイトの王様〉とよばれる金福長さんは数日まえから鞍山のある工場へでかけて、技術上の難題解決を手伝っていたが、日本の友人が瀋陽にくると聞いて、夜行列車で急いで帰ってきたのだった。職場に全日本港湾関係労働組合協議会代表団を迎えた金さんは大よろこびで、おなじ班のものと力をあわせてつくったボール盤のところへ案内し、それを使ってみせた。このボール盤は深さ三メートルの穴をあけることができ、これによって能率を一五倍にたかめることができたという。日本の友人たちは、賞賛の瞳をかがやかせながら金さんと固い握手をかわし、技術革新の成功を祝った。

瀋陽変圧器工場の若い労働者王希春(ワンシーチユン)さんと日本ジャーナリスト会議代表団の井出孫六さんとの話しあいもとても熱の入ったものだった。日本の友人が自分たちの工場を見学にくると聞いて王さんは、昼休みを利用して愛用の扇子に「中日両国人民は団結し、アメリカ帝国主義に反対しよう。中日両国人民の友誼は永遠にかわらない」としるした。この扇子はやがて訪れた日本の友人へおくられた。日本の友人も、日中両国人民の永遠の友情をこめて記念バッジを王さんにおくった。

瀋陽市のどの工場をのぞいてみても、中日青年の友情をしめす感動的な場面がみられた。瀋陽第一工作機械工場を訪れた日中友好協会青年代表団のある友人は、工場の門をくぐるやいなや一〇〇名あまりの労働者から握手攻めにあい、手は油でまっ黒になったが、洗いにゆこうとはしなかった。かれは中国の労働者と握手して身体のなかに力がみなぎり、いつまでもこの手をのこしておきたかったのだ。見学が終わっていざ出発というとき、労働者たちは日本の友人をのせたバスをぐるりととり囲んだ。勤務を終えたばかりの労働者は油まみれの作業服のままでかけつけてきた。バスは人垣にとりかこまれて容易に出発もできなかった。バスのまわりは、送るもの、送られるものがしっかりと手をにぎりあい、〈東京―北京〉の合唱でうずまいた。この友情を物語る歌ごえは両国の若ものの心をひとつに結びつけた。

雄大な鋼鉄の都市―鞍山の労働者も熱い友情の手を日本の友人たちにさしのベた。日本の友人たちは継目なし鋼管工場や圧延工場、製鋼所、製鉄所などの大工場を見学し、製鋼労働者のうみだしたすばらしい成果をみて、「人民がひとたび解放されると無限の力を発揮するものですね。日中両国の人民が団結すれば、どんな奇跡でもうみだせるに違いない」と感動をこめて語った。


〈バイトの王様〉といわれる瀋陽大型機械工場の金福長技師が日本の友人たちに自分が発明した新式ボール盤について説明しているところ
〈バイトの王様〉といわれる瀋陽大型機械工場の金福長技師が日本の友人たちに自分が発明した新式ボール盤について説明しているところ

製鉄所の門前では作業服姿の労働者が、日本の若い友人たちをかこんで歓迎していた。そこへ六八歳になる有名な労働模範の孟泰(モンタイ)さんがかけつけてきた。かれは人垣をかきわけて前にでると、よく来てくれた、よく来てくれたとくり返しながら友人たちと握手をかわした。病気でずっと休んでいた孟泰さんは、日本の友人が工場にくると聞いて、三キロも離れた自宅からとんできたのである。その孟泰さんの手をにぎりしめて日本の若い婦人のひとりが、「あっ! あなたが毛主席とならんでとられた写真を北京(ペイチン)でみましたわ」といった。孟泰さんは相好をくずして、「これからは自分の家に帰るつもりで、しょっちゅう来て下さいよ」といい、帰ったら日本の労働者によろしくつたえて欲しいとことづけた。「中日両国人民は団結して、アメリカ帝国主義にバカにされないようにしなければいけない」そういって孟泰さんは若い友人たちを高炉の方へ案内し、生産状況を説明した。

別れにさいして、日本の若ものは、日中国交回復運動のバッジを孟泰さんにおくった。「大切にしまっておくよ、中日両国人民の友好のしるしとしてね……」と孟泰さんはひじょうによろこんでバッジをうけとった。「どうかお身体を大切にして下さい。わたしたちはまたきっとやって来ます」日中友好協会青年代表団団長の春日嘉一さんは老いた労働模範に愛情をこめた別れのあいさつをおくった。

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