団結と友情のひと月
延安 9月4日(土)
曇のち雨
第二陣の友人たちに随行して延安へ向かう。
西安―延安間は三六〇キロ。
曇のち雨。機はいささかゆれる。
雨の延安飛行場に着陸。出迎えの人びとがタラップからバスまで傘をさしつらねて長い廊下をつくり日本の友人を雨から守ってくれる。
雨中に立ちつくして出迎える延安の若ものたちは遠来の友を迎えるよろこびに、びしょ濡れになるのも気にせず、頬にしずくをたらしながら手をふり、拍手をし、握手をかわす。かれらの心も手ももえているのだ。頬をつたうしずくが黒い瞳とかがやきを競ってよろこびに光っている。
午後になって晴れる。
とるものもとりあえず日本の友人たちは、毛主席が延安についたはじめに住んだ窰洞のある鳳凰山(フオンホワンシヤン)にゆく。窰洞内のすべてに友人たちはひきつけられる。まず入り口のまえにある石臼をとりかこんだ。内部に入ると、主席がつかった机、椅子、炕(オンドル)をくわしくみる。さすってみるものもいた。窰洞はせまい。その内部を友人たちはくわしく見ながら立ちどまっては思いにふけり、炕のそばによりかかって窓外にひとみをこらす。
そこを出て延安革命博物館へゆく。革命にゆかりの品をまえにして友人たちの歩調は期せずして遅くなる。赤い房のついた槍、粟、小銃、旧式の銃と砲、陝西省北部を転戦するさい主席が乗った馬(ハク製)、革命の各時期をしめす写真のまえで、友人たちは説明に耳をかたむけ、ノートをとり、くわしくながめた。
延安は中国共産党中央委員会と毛主席が一九三七年から一九四七年までの一〇余年間仕事をしたところ。その間、延安は中国人民革命闘争を指導する中心地だった。
『毛沢東(マオツオトン)選集』(第一~四巻)におさめられている文章一五八編のうち一一二編までがこの延安と陝西省北部で書かれている。なお、第二、第三巻の文章はいずれも陝西省北部(延安をふくむ)で執筆された。友人たちが窰洞のなかで主席の使った机や椅子、ベッド、ランプ、火鉢をいつまでもながめていたのも、もっともである。
延安 9月5日(日)
晴
雨あがりの延安はことのほかすがすがしい。友人たちは起床すると、窰洞のまえで体操をした。
きょうは延河(イエンホー)のほとりにある楊家嶺(ヤンチヤリン)、棗園(ツアオユワン)、王家坪(ワンチヤピン)、宝塔山(パオターシヤン)、日本労農学校跡などをまわる。楊家嶺にある党中央大講堂のグラウンドで、中日両国の若もの数百名がヤンコー踊りをおどった。
棗園で、友人たちはかつての郷長―楊成福(ヤンチエンフー)さんに会う。六〇にちかい楊さんはいま棗園の管理員をしている。かつて毛主席が近所のものと正月を祝ったときのようすを楊さんはなんの飾り気もないことばで語った。楊さんたちは毛主席と卓をかこんでたべ、酒をのみ、拳をたたかわしたのだ。ついで、毛主席をはじめ党中央の指導者たちが、いかに住民の生活に心をくばってくれたかをつげた。楊さんが文字をおぼえたのも毛主席にすすめられたからだという。
話がすむと、楊さんは棗園でとれたナシをかごにつめて日本の友人に贈った。楊さんに別れをつげた友人たちは主席が住んでいた棗園の窰洞を参観。窰洞のかべには毛主席が夫人や子どもとならんだ写真がかけてある。あまり見かけないこの写真に、友人たちはいそいでカメラを向けた。
王家坪では野坂参三議長が住んでいた窰洞をみる。友人たちは、野坂同志の延安での生活をつたえる説明係のことばに興味深く耳をかたむけた。野坂同志が植えた槐を友人たちはいつまでもながめていた。二〇余年の樹齢をもち、そのこずえは窰洞の頂をこえている。
一九五六年、野坂議長は中国をおとずれたさい、ここをたずねた。そのとき、窰洞内の配置を記憶をもとにみずから一部あらためたという。
毛主席は延安で四たび住いをかえている。その旧居のどこでも日本の友人たちは記念撮影をし、野坂議長の旧居でも記念撮影をした。
延安での二日間はみるまにすぎさった。友人たちのなかには、棗園のナシや土塀に張られていた「日本の青年を歓迎する」「アメリカ帝国主義を打倒せよ」といったスローガンを延安の記念にポケットにしまっている人もいた。
延安の飛行場で、日本の友人は、「延安に来られてほんとうによかった。延安からたくさんのものをまなびました。中国人民が苦しいたたかいをつづけているとき、野坂参三同志はこの地で中国人民とともにたたかったことを誇りに思います。ぼくたちは延安で大きな力を身につけました」と語った。
延安についた日は雨で、高度二四〇〇メートルをとんでいたが、陝西省北部の地形がみられなかった。きょうは晴天、陝北高原が一望のうちにながめられる。旅客機は洛水(ローシユイ)の流れにそって南へとぶ。
西安 9月6日(月)
晴
西安での最後のスケジュールは華清池での交流。驪山(リーシヤン)のふもとにある華清池には温泉が湧く。六四四年、唐の太宗―李世民(リーシーミン)がここに離宮をきずき、七四七年には玄宗―李隆基(リーロンチー)がそれに手をくわえて華清宮と名をあらためた。解放後、政府は修理をくわえ、建て増して鉄道労働者サナトリウム、幹部サナトリウム、一般のための浴場、プールなどをつくった。華清池の東がわにあたる山の中腹にちいさな亭がある。捉蔣亭という。そこは一九三六年一二月一二日、張学良(チヤンシユエリヤン)、楊虎城(ヤンフーチヨン)の部下の兵が蔣介石をとらえたところである。
両国の若ものは華清池で午後いっぱい存分に交流した。数千の若ものは歌い踊ったあと、一部は捉蔣亭にのぼって、蔣介石が逃がれようと岩のすきまにひそんだあとをながめた。ボートをこぐものもいたし、泳ぐものもいた。
夜、日本の若ものたちは延安を回想し、この地の友の友情を胸に西安を出発。
駅の広場で、中国の若ものたちがちょうちんをかかげて送別のだしものを演じる。ホテルから駅まで、人びとは道をはさんで見送っている。ついたときよりもずっと多い見送りの人びとに、日本の友人たちはひどく心をうたれていた。
洛陽 9月7日(火)
晴
車中で一夜を明かして早朝に洛陽(ローヤン)着。西安―洛陽間は三八八キロの汽車の旅である。ここも古い都。
市内見物をする。古い城内をみたあとで新市街をまわる。新市街は一九五三年にはじまった第一次五ヵ年計画のさいに建設されたもの。一〇年にわたる建設のすえ、新市街が古い城内のかたわらに誕生した。バスからながめると、道路の両がわに街路樹が整然とたちならんでいる。洛陽市民は、市内を美しくしようと数年がかりで緑化運動をつづけ、一二〇〇万株(そのうち一〇〇余万株は果樹)植樹したという。
いま古都洛陽は近代的な工業都市へ移行しつつある。人口はかつての二乗という増加ぶりで、工場の煙突が林立している。
新しい工場は自由に参観できるのだが、時間の都合で三つにとどめることになった。えらばれたのは鉱山機械工場、ベアリング工場、トラクター工場。
トラクター工場で日本の友人は、性能を調べるためにトラクターを運転した。
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