団結と友情のひと月
西北コース
革命の聖地延安を見る
黄相(ホワンシヤン)
西安 9月1日(水)
晴ときどき曇
午後三時四〇分、専用列車で西安(シーアン)につく。日本の青年代表団八団体九六名の一行が北京(ペイチン)をあとにしたのは昨日の午後三時。北京―西安間は一二〇〇キロあまり。河北(ホーペイ)省と河南(ホーナン)省のなかばを走破する二四時間の汽車の旅は、日本の友人たちには休息と初秋の景色を楽しむ旅でもあった。
西安駅のプラットホーム、駅前の広場は花束をふる若い男女で埋めつくされていた。若さが発散する熱気に高なるドラと太鼓の音がひとつになってみなの心をわきたたせる。
駅前広場での歓迎式が終わったのはもうかれこれ五時。これで歓迎のスケジュールは終わったと思ったが、それは誤りで、一行をのせたバスが駅からホテル―西安人民大厦に向かう沿道も歓迎の人波だ。人びとは駅に集まった若ものたちとちがい、ふだん着のままである。ひと目で市民、労働者、職員とわかる。みなが通りをはさんで手をふり、拍手をおくる。ビルの窓からくびを出して手をふるものもいた。
駅からホテルまでは約三キロ。日本の若い友人たちもバスの窓からくびをだし、西安の若ものからおくられた花束をふって沿道の歓迎にこたえ、おぼえたての中国語で〈您好!〉を連呼する。
夜、日本の若ものは西安市と陝西(シヤンシー)省青年連合会の共同主催になる歓迎会に出席して存分に交流の実をあげた。会が終わったのは一〇時半。
西安 9月2日 (木)
晴
参観の便宜を考えて、きょうから一行は二手にわかれて行動することになる。四つの代表団の四八名は朝早く飛行機で延安(イエンアン)へ出発。のこりの四つの代表団の四八名は幾組かにわかれて西安市内の参観、訪問をし、座談会に出席する。
二〇〇〇年の歴史をもつ古都―西安は、新旧さまざまな名所にとむ。古跡には大雁塔、小雁塔、興善寺、興教寺、青竜寺など、新しいものとしては解放後に手をくわえられた学術的価値にとむ陝西省博物館と半坡(パンポ)博物館。前者は地方の歴史を二八八七点の文物(三つの部分にわかれている)でしめすが、これをみると中国文化史および東西文化交流面での西安の地位がよくわかる。後者は一九五三年の春に発掘された新石器時代の村落遺跡、中国の原始社会を研究するうえでの重要なもの。
新旧名所をたずねてから日本の友人たちは現在の西安を手分けして参観する。近年設立された大学、工場、幼稚園の参観、芸術団体の訪問。小説『紅岩』に登場するカブラ頭―宋振中(ソンチエンチユン)君の実姉、宋振平(ソンチエンピン)さんとの座談をすませ、郊外にある人民公社をたずね、抗日戦争当時ここに設けられていた中国共産党八路軍西安弁事処を参観する。
全日本農民組合連合会代表団の友人五名は、郊外の人民公社をたずねて社員といっしょに働き、社員の家にまねかれて食事をよばれ、焼酒をふるまわれた。全日農の秘書長―手塚政弘さんは、「人民公社が発展しているのは疑いのない事実だ。農民は公社の主人公としての地位にあり、だれもが自力更生·奮発図強の精神を体して社会主義の村づくりにいそしんでいる」といった。なかでも日本の友人を感動させたのは、教育をうけた中国の若ものがぞくぞくと農村にきて働いていることだった。
西安 9月3日(金)
晴
宗教青年代表団のメンバーは、興善寺と青竜寺の跡をたずねた。興善寺は晋代(二六五~四二〇年)の創建。青竜寺は解放前にながいあいだ修理がくわえられず崩壊し、いまは遺跡をとどめるだけである。
青竜寺といえば、空海が長安留学中すごしたゆかりの寺。そのこの空海がはたした役割からいっても、この寺は中日文化交流史上記念さるべきものといえる。
興善寺で日本の友人たちは住職の慧雨和尚、常明和尚らと話し合う。和尚たちは、自分たちが植えたリンゴの木から実をつみ、トウモロコシをそえてもてなした。
たべながら話がはずむ。中国の僧たちの生活に関心をもつ日本の友人たちは、一日の労働時間や勤行の時間などについてたずね、これまで実現をみていない「普渡衆生」(衆生を済度する)問題について意見をまじえた。
「中国の僧は昔から労働する習慣があります。唐代の書物にもしるされているように、働かなければその日の食事をとらなかったものです。ところが、解放まえには寺に土地がなかったので耕すこともできず、檀家と布施で細々と生活するほかありませんでした。いまは五〇ムー(一ムーは六·六六七アール)の畑をもっていますから、リンゴの木を植え、トウモロコシをつくっています。働きにおうじて公社から分配をうけますので、いぜんのような貧乏暮らしではありません。一日の労働時間は八時間、朝晩のお勤めもいたしております」と慧雨和尚が答えた。
午後、いちぶの日本の友人は西安冶金建築学院をたずね、学生たちと楽しく過ごす。手をつないで構内を散歩し、授業を参観し、実験室や寄宿舎をみ、学生たちと球技に興じ、学生が設計·施工した図書館を参観する。座談会をすますと、学生たちと夕食をともにした。
学院の在学生は三〇〇〇余名、教師は六〇〇余名。この数年間に五〇〇〇余名の卒業生を工場、鉱山へおくっている。
両国の若ものは理想を語り、志望を語り合った。趙書瑜(チヤオシユウユイ)さん(採鉱科二年)は、鉱山労働者の父のあとをつぎ、鉱業に貢献するために地下の宝にいどむといい、「祖国建設のために、風雨を冒してボーリングやぐらをたて、工場をつくり、鉱山をひらくのは仕合わせだし、それをやるのが若ものの負うべき義務です」とむすんだ。
貧農の子に生まれた郭春祥(クオチユンシヤン)さんは解放後はじめて学校にあがり、中学校に入学してからはずっと奨学金をうけて勉強をつづけている供熱科三年生。家族がみな文字がよめなかったから、大学にゆくなどは夢だった。郭家で大学生になったのはかれがはじめてである。そうした過去を語ってから、「わたしは勤労者の子であることを永久に忘れないつもりです。共産党と毛主席の教えはなおさら忘れません。永久に人民のため誠実に働くこと、これがわたしの信念です」と日本の友につげた。
北陸東海各界青年代表団の川原勝美さんと吉田石雄さんは、社会問題について中国の学生と話し合った。川原さんは「日本にはプロ野球の選手やスターになるのを理想にしている子供がたくさんいます」といい、吉田さんは「現実を逃避するために登山に熱をあげる若ものが多い」と語った。それは異なる社会制度が異なる情操と生活への志向を若ものにもたらすことを聞くものに考えさせた。
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