国交正常化から 感動と知恵40年の歩み
民間で広まる友好の輪
新中国成立後、中日両国の民間外交は、貿易促進、文化交流などの面で、積極的に推進され、中日の歴代の友好人士は中日国交正常化を促進し、中日間の相互信頼を深化させるために、精魂を傾け、思慮を尽くした。両国の民間交流は、安定的で相互信頼に支えられた中日関係構築のために、重要かつ深遠な意義を持っていた。
井戸を掘った人を忘れず
中日民間交流史を振り返ると、廖承志氏の名前がしばしば持ち出される。彼は中日両国間の友誼のために、全生涯を捧げた先達であり、中国、日本双方で共に「廖公」と呼ばれている。
一九七三年四月、廖氏は中日友好協会代表団を率いて訪日した。これは中日国交正常化後初の大規模な訪日代表団であり、また廖氏が率いた最初の代表団でもあった。
東京で、彼は団員を引き連れて護国寺に赴き、中国との関係発展に尽力した松村謙三氏の墓前で霊を弔った。松村氏は八十八歳の長命だったが、遺憾なことに国交正常化を目撃することはできなかった。廖氏は往時を思い出し、涙を禁じ得なかった。彼は国交正常化が達成された事実を墓前で報告し、中日関係改善のためにいまわの際まで奮闘した老友の霊を慰めた。
『中日平和条約』締結後、一九七九年五月九日、廖氏を団長とする「中日友好の船」訪日団が下関に到着すると、内外の報道には「廖公船」という親しみを込めた愛称が数多く見られた。
「中日友好の船」の訪日日程は約一カ月に及び、下関、大阪、名古屋、東京、室蘭、新潟、富山、鳥取、福岡、長崎の十港に停泊した。空前の日本列島一周航海で三十三都道府県と百七十四の市と区、七十一の町を訪問し、この六千三百五十六㌔に及ぶ航海で、中日友好の種子がまかれた。正に廖氏が各地で述べ、揮毫したように、「船に乗って一周すれば、友好は千秋に達す」
天津と神戸が初「姉妹」
1973年6月24日、周恩来総理のお声がかりで、天津市と神戸市が中日間で最初の姉妹都市(中国語では友好城市)になった。また、1980年代初めの農業技術交流から新世紀を目指す循環経済協力に進化し、中日姉妹都市交流の内容は次第に「技術の実用性が高い」レベルに到達した。現在では、姉妹都市提携は省·自治区·直轄市と都道府県との提携を含め248組に増えている。
天津港の滞積問題を解決
国交が正常化したばかりの一九七二年十月、宮崎辰雄神戸市長が訪中し、周総理と会った際に、神戸と上海か天津とで中日間で最初の姉妹都市提携を実現したいと提案し、翌一九七三年六月、天津と神戸の姉妹都市提携が実現した。
その後六年の間に、中国は外国と六組の姉妹都市提携を行ったが、その対象はすべて日本の都市だった。中国国際友好都市連合会秘書長の李利国氏は「中国の姉妹都市提携の初期を振り返ると、先ず国家間の外交があり、その後、地方政府と外国の都市との外交が行われたことが分かります」と語る。
一九八〇年代初め、天津港のインフラ整備は急速に発展していた対外貿易の需要に追いつかず、近代的な港湾管理経験が乏しかったため、貨物の滞積問題が深刻で、港に到着した外国船が積荷を陸揚げするために一カ月も待たされるケースがあったほどだ。一九八四年、天津市は姉妹都市の神戸市と『天津港の管理と建設を推進するための神戸市の支援に関する協議書』に調印し、天津市は鳥居幸雄神戸市港湾局長を天津港務局最高顧問に招聘した。四年後、顧問団は『天津港緊急改造案』と『天津港長期改造案』を提出し、すべて受け入れられた。双方の協力によって、天津港の滞積、滞船問題はスムーズに解決された。
三十年来、両市は政治、経済貿易、環境保護など多くの分野で全方位の交流と協力を推進し、実り多い成果を上げ、中日姉妹提携の模範となった。
一九七八年から一九九二年にかけて、中国の対外姉妹都市提携は最初のピークを迎えた。南京市と名古屋市は一九七八年に提携し、『平和友好条約』締結後、最初の姉妹都市提携となった。
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