国交正常化から 感動と知恵40年の歩み

2023-05-29 14:16:00

1991~2002年《深化》

中日共同宣言で方向性

1998年11月、江沢民国家主席の訪日中に、中日双方は『平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する中日共同宣言』を発表した。1972年の『共同声明』によって両国の国交正常化問題が解決され、1978年の『平和友好条約』によって両国関係に関する法的根拠が確立されたとすれば、『宣言』はこの2つの文書の基礎の上に、両国関係のプラス、マイナス両面の経験と教訓を総括し、21世紀の中日関係の健全で安定的な発展のために方向性を明示したと言えるだろう。 

1998年11月26日午後、東京で開かれた中日首脳会談で小淵恵三首相(中央右)と握手する江沢民国家主席(中央左)。この会談後、中日双方は『中日共同宣言』を発表
1998年11月26日午後、東京で開かれた中日首脳会談で小淵恵三首相(中央右)と握手する江沢民国家主席(中央左)。この会談後、中日双方は『中日共同宣言』を発表

過去を受け継ぎ将来に道 

一九九八年十一月二十五から三十日まで、江沢民国家主席が訪日した。これは史上初めての中国の国家元首の訪日だった。二十六日、双方は『宣言』を発表し、「平和と発展のための友好協力パートナーシップ」の構築を宣言した。『宣言』を煮詰める段階で、双方は両国首脳が署名せずに発表すると取り決めたが、その意味の重要さは『声明』『条約』と比べて少しも劣らない。

『宣言』は中日関係がそれぞれにとって、互いに最も重要な二国間関係の一つだということを初めて確認し、平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築を宣言した。

また、歴史認識、台湾問題への正確な対応と処理に関して、新たな重要なコンセンサスに達した。『宣言』は過去を直視し歴史を正しく認識することが、中日関係を発展させる重要な基礎だと明記した。日本側は初めて文書で中国への侵略を認めると同時に、再び深く反省することを表明した。台湾問題について、日本側は一つの中国という原則の遵守を確約した。

このほか、『宣言』は中日関係はすでに二国間関係の範疇を超え、地域的、世界的な意義を持ち、双方は平和維持と発展促進に対し重要な責任を負っていると明記した。

『宣言』発表以来、中日関係には新たな発展もあったが、曲折もあった。後の実践によって繰り返し証明されたように、『宣言』の着実な徹底によってのみ、両国関係は順調に発展できるのだ。それに対し、言行不一致が起きれば、さらに甚だしくは行動が『宣言』に背馳すれば、両国関係は困難に陥る。歴史認識と台湾問題においては、とりわけ明白だ。

1995年5月、中国公式訪問中に北京·盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館を参観し、記帳する村山首相(中央)。「歴史を直視し、日中友好と永久平和を祈る」と書き記した。同年8月15日、村山首相は「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題して、有名な「村山談話」を発表した
1995年5月、中国公式訪問中に北京·盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館を参観し、記帳する村山首相(中央)。「歴史を直視し、日中友好と永久平和を祈る」と書き記した。同年8月15日、村山首相は「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題して、有名な「村山談話」を発表した

 

広まり深まる農業交流

農業交流は一貫して中日国民友好事業の重要な構成部分だ。国交正常化以後、農業交流も新たな段階に達し、1990年代になると、さらにかつてないほど広まり、深まってきた。袁隆平氏ら中国の農業専門家が訪日し、講演し、また原正市氏ら日本の農業専門家も技術伝授のため中国に来て、共同で農業実験を行ってきた。 

1996年5月14日、北京の人民大会堂で行われた第1回「中国国際科学技術協力賞」の授賞式で、宋健国務委員·国家科学委員会主任からメダルと表彰状をにこやかに受け取る水稲専門家·原正市氏(左)
1996年5月14日、北京の人民大会堂で行われた第1回「中国国際科学技術協力賞」の授賞式で、宋健国務委員·国家科学委員会主任からメダルと表彰状をにこやかに受け取る水稲専門家·原正市氏(左)

歓迎された「畑苗移植法」 

一九九六年五月十四日、第一回「中国国際科学技術協力賞」の授賞式が北京の人民大会堂で開催された。拍手に包まれて、一人の日本人がうれしそうにメダルを受賞した。彼が著名な水稲専門家の原正市氏だった。

原氏は北海道出身で、「畑苗移植法」の米作り技術の専門家だ。「畑苗移植法」は種もみ節約、肥料節約、用水節約、労働力節約で増産できる栽培技術で、通常の苗移植に比べて一〇%以上の増産が可能だった。

一九八二年から二〇〇二年まで、原氏は六十回以上、中国を訪れ、「畑苗移植法」の技術を指導し、三十を超える省·自治区·直轄市に足跡を残した。彼は中国に来るたび、真っすぐに水田に駆けつけ、手取り足取りで苗床を整備し、「畑苗移植法」を指導した。親しくなった人々からは「老原(ラオユアン、原さん)」と呼ばれていた。一九九〇年代末までに、「畑苗移植法」による中国の米作面積は年間二億ムー(一ムーは約六百六十七平方㍍)以上に達した。

原氏は、最初は確かにいくらか困難はあったが、中国人民の情熱と心配りに感動した、とかつて語っていた。中国の農民がこの技術によって豊作を達成し、破顔一笑するのを見ると、何にも替えがたい満足と安らぎを感じたそうだ。

原氏は二〇〇二年に逝去した。中国政府は彼を記念して、ふたつの銅像を鋳造した。ひとつは彼の故郷の北海道岩見沢市に、もうひとつは長沙市中日友好公園に設置され、彼の中国に対する偉大な功績を記念している。

果樹栽培専門家の久保信吉氏(中央左)から、ブドウのハウス栽培に関する管理技術の指導を受ける山東省の農業技術関係者
果樹栽培専門家の久保信吉氏(中央左)から、ブドウのハウス栽培に関する管理技術の指導を受ける山東省の農業技術関係者

 

手を携えて砂漠化防止

中日両国は地形的な関係が緊密で、生態系·自然環境には強い依存関係がある。1990年代、中国は経済面で成果を上げ始めると、環境問題が日に日に浮き彫りになってきた。環境保護が中日交流の一つの新しい分野になり、政府間で多くの協力プロジェクトが実施されただけではなく、多くの非政府組織(NGO)団体と個人が、中国に赴き、活動を展開し、砂漠化防止などの分野で活躍している。 

2002年9月22日、北京の八達嶺長城の麓で行われた「中日友好万人友誼林」の植樹行事。橋本龍太郎元首相(手前)、銭其琛元副総理(手前から2人目)らが参加 cnsphoto
2002年9月22日、北京の八達嶺長城の麓で行われた「中日友好万人友誼林」の植樹行事。橋本龍太郎元首相(手前)、銭其琛元副総理(手前から2人目)らが参加 cnsphoto

緑のオアシスを取り戻せ 

内蒙古自治区包頭の西にホブチ(庫布斉)と呼ばれる砂漠がある。この砂漠の後背地にオアシスがあり、エンゲルベイ(恩格貝)と呼ばれている。ここにひとつの彫像が立っている。一人の老人がシャベルを握って、遠方の砂漠に視線を向けている。台座には「緑の使者――遠山正瑛」と記されている。

遠山氏は山梨県出身で、若い頃、中国へ来たことがあり、その時、「この砂漠をオアシスに変えてみたい」という大志を抱いた。一九六〇年代、毛沢東主席が彼を招き、砂漠緑化の指導を望んだが、残念ながら、その時は実現しなかった。中日国交正常化が実現すると、彼の若い頃の夢が呼び覚まされた。

一九九一年、遠山氏は「日本砂漠緑化実践協会」を創立し、エンゲルベイで砂漠緑化事業に着手した。エンゲルベイはかつて緑の草原だったが、過剰な開墾と放牧のために、ホブチ砂漠に侵食され始めた。

「環境問題を解決するには、世界が一体となって、碁を打つように緑の地を増やして行くしかありません。中国の砂漠緑化も私たち自身を助けることです」と、遠山氏はいつも語っていた。

十年間、彼は相次いで延べ三百団体以上、合わせて六千六百人を超える日本人ボランティアを率いて訪中し、毎日十時間も働き、砂漠化したエンゲルベイに三百万本の樹木を植えた。この地に緑の林をよみがえらせ、王明海氏ら中国の砂漠化防止の専門家とも深い戦闘的友情を結んだ。

二〇〇四年、遠山氏は九十七歳で、病気で亡くなった。しかし、その後も、彼の功績に感動した多くの日本人が、毎年、中国を訪れ、中国のボランティアと共に砂漠化と戦っている。現在、エンゲルベイは総面積約二万平方㌶の生態ツアー地区になっている。

高齢をものともせず、砂漠の強風に耐えながら「エングベー砂漠総合開発区」に植樹したハコヤナギを剪定する遠山正瑛氏(右)
高齢をものともせず、砂漠の強風に耐えながら「エングベー砂漠総合開発区」に植樹したハコヤナギを剪定する遠山正瑛氏(右)
上5页上一页678910下一页
関連文章