国交正常化から 感動と知恵40年の歩み

2023-05-29 14:16:00

2003~2012年《改善》

首脳相互訪問で打開

2001年後半から、中日首脳の相互訪問が中断され、両国関係は5年におよぶ「冷凍」時期が続いた。2006年10月、安倍晋三首相が訪中し、「氷を割る旅」を実現した。その後、中日両国の指導者による「融氷」「迎春」「暖春」の旅が中日関係を少しずつ推進し、改善し始めた。 

2003年8月9日、人民大会堂で開かれた中日平和友好条約締結25周年記念行事に出席した橋本龍太郎元首相(左から2人目)と会見する胡錦濤国家主席(右から2人目)
2003年8月9日、人民大会堂で開かれた中日平和友好条約締結25周年記念行事に出席した橋本龍太郎元首相(左から2人目)と会見する胡錦濤国家主席(右から2人目)

未来志向の『共同声明』 

二〇〇八年五月六日から十日にかけて、胡錦濤国家主席が日本を公式訪問した。これは中国国家元首の十年ぶりの訪日だった。

胡主席は訪日日程がちょうど春が来て暖かくなり、花が咲き誇る時期だったことから、「まさに暖春の旅といえる」と述べた。胡主席は福田康夫首相と共同で『「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する中日共同声明』に署名した。『声明』は、「双方は絶えず相互理解、相互信頼を深め、互恵協力を拡大しつつ、中日関係を世界の潮流に沿って方向付け、アジア太平洋及び世界の素晴らしい未来を共に創り上げていく」と宣言した。

『声明』はそれ以前の三つの政治文書の原則を受け継ぎ、中日関係の新しい発展に基づいて、両国関係の長期的発展についての指導原則を確立し、両国関係の発展的な未来図を描いたもので、三十年前に締結した『中日平和友好条約』を、新たな国際情勢と中日関係の下で、継続、発展させたということができ、中日間の四つ目の重要な政治文書と呼ばれている。

2008年5月7日、天皇皇后両陛下が皇居で胡錦濤国家主席(左から2人目)、劉永清夫人(右から2人目)と会見した
2008年5月7日、天皇皇后両陛下が皇居で胡錦濤国家主席(左から2人目)、劉永清夫人(右から2人目)と会見した

 

深まる経済的なきずな

国交正常化後の40年来、中日関係は幾度も風雨にさらされ、紆余曲折を経てきた。経済交流にも波乱が起きたが、相対的に見て、健全に発展する状態が維持されてきた。両国の政治関係が「氷河期」に陥った時も、経済貿易の往来は依然として全面的な拡大の趨勢を呈していた。2007年、中国は初めて米国に代わって、日本にとって最大の貿易パートナーになり、一方、日本は中国にとって3番目の貿易パートナーになった。中日経済はすでに「あなたは私の中に、私はあなたの中に」という切っても切れない関係になっている。 

レノボとNECが共同開拓 

少し前、世界第二位のPCメーカー·レノボ(聯想集団)は、納期を短縮し、輸送コストとリスクを減少させるために、商用コンピューターの生産能力の一部を中国から日本に移転することを決めた。

二〇一一年七月、レノボとNECが提携会社としてNECレノボ·ジャパングループを設立し、その出資率はレノボ五一%、NEC四九%にすると、発表した。レノボ側の楊元慶CEO(最高経営責任者)は次のように述べた。日本はレノボが長年にわたって重視し続けてきた市場であり、レノボが設けた世界三大研究開発拠点のひとつも日本にある。提携によって、レノボのグローバル化による優位性、急成長の勢いと、NECの日本市場における主導的な地位とが融合し、さらに強力な競争力を生み出し、両社にとって、また双方の顧客にも利益がもたらされる。

一方、NECの遠藤信博社長は、レノボは最適なパートナーであり、双方が結んだ戦略的パートナーシップはNECとその顧客に利益をもたらし、日本でのパソコン事業の強化·拡大に寄与すると、率直に語った。

レノボの最新財務レポートによると、レノボとNECの合弁会社の日本市場におけるPC販売量は前年同期比で二三一%増加した。合弁会社傘下の米沢工場は今後三年以内に、日本のコンピュータ市場におけるシェアを現在の二五%から約三〇%に引き上げる計画だ。

「レノボ国際電子製品(CES)展示会」で新製品を紹介する陳旭東レノボ副社長兼ゼネラルマネージャー(中央)。会場にはレノボのスマートテレビが展示されていた newsphoto
「レノボ国際電子製品(CES)展示会」で新製品を紹介する陳旭東レノボ副社長兼ゼネラルマネージャー(中央)。会場にはレノボのスマートテレビが展示されていた newsphoto

日本観光に百万人以上

長い間、日本は中国にとって最大の観光客輸出国だった。ところが、2000年9月、日本が初めて中国人の個人観光客に対するビザ発給を開始すると、中日間の観光交流は高速車線に入って走り始めた。2005年、両国は2006年を「中日観光交流年」と定めた。東日本大震災後、日本の観光業は深刻なダメージを受けたが、依然として中国からの観光客は日本観光市場の主力であり、2011年に訪日した中国大陸部の観光客は104万4000人に達した。 

2009年7月8日、成田空港に到着した個人ビザ取得第一陣の中国人観光客を迎える観光大使「キティちゃん」ら歓迎陣
2009年7月8日、成田空港に到着した個人ビザ取得第一陣の中国人観光客を迎える観光大使「キティちゃん」ら歓迎陣

 

「万博おばあちゃん」 

上海万博の時、当時六十二歳だった山田外美代(とみよ)さんは中国の庶民の間で有名人だった。彼女が大枚の自費を使って万博を参観した話が広く伝えられ、親しみを込めて「万博おばあちゃん」と呼ばれていた。

二〇〇五年、彼女は腰や腹の手術を五回も受け、ずっと病気がちで家に閉じこもっていた。気分がすぐれない様子を見ていた家族が、自宅から遠くない愛知万博の会場に連れて行き、ついでに身体を鍛えさせることにした。ところが、万博に通うたびに、彼女の病状は好転し、ついには、万博にすっかりほれこんでしまい、百八十五日間の開催期間中に、何と二百回以上も入場したほどだった。

その後、彼女は上海万博にも必ず行こうと心に決めた。万博会場の建設が始まる前に、彼女は万博参観の下調べのために十八回も中国との間を往復した。「私は日本館と中国館の建設の様子を逐一、見ていましたよ」と、彼女は自慢する。彼女は一家そろって日本から上海に引っ越し、万博会場に近いコミュニティーにマンションを借りた。上海万博のために、彼女が使った入場券、航空券、家賃などの諸経費は九百万円に達した。

上海万博が開催されていた百八十四日間、彼女は家族に付き添われて一日も欠かさず入場し、累計の滞在時間は七百六十七時間四十分、写した写真は六万千九百三十三枚に及んだ。こうしたことから、彼女は上海万博事務協調局から「二〇一〇年上海万博皆勤賞」を授与された。また、開催中に開かれたハイレベルフォーラムで、温家宝総理は特に、「万博おばあちゃん」の感動的なエピソードを演説で取り上げた。

二〇一一年三月末、彼女は上海で触れ合った人たちとの交流の様子などをまとめた『万博おばあちゃんからのおくりもの~上海万博~』を日本で自費出版した。同年五月訪日した温総理に、この手記に一通の手紙を添えて、人を介して贈った

上海万博中国館の前で微笑む山田外美代さん
上海万博中国館の前で微笑む山田外美代さん

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