国交正常化から 感動と知恵40年の歩み
多彩なスポーツ交流
国交正常化以降、とりわけ中国の改革開放以来、両国はさまざまな分野で多岐にわたるスポーツ交流と協力を行ってきた。2006年、安倍晋三首相が訪中した際に、両国指導者は2007年を「中日文化·スポーツ交流年」と定め、一連の記念交流活動の幕を開いた。
愛さんの愛称「磁娃娃」
色白ですべすべした丸顔、二重まぶたに大きな瞳、笑うと少し持ちあがる口元はアニメのキャラクターにそっくり。卓球選手の福原愛さん(二三)が中国の卓球ファンに深く親しまれているのはこうした愛らしさだろう。「磁娃娃(ツーワーワー、瀬戸物の人形)」は中国人が色白の美少女に進呈する愛称だ。中国のメディアはかわいい顔立ちをしていて、ゲームに負けるとべそをかく福原さんに「磁娃娃」のニックネームを贈った。今では、中国の卓球ファンの間では、福原さん専用の愛称となっている。
福原さんは五歳から中国で卓球の練習を始め、韋晴光さん、呂林さん、陳龍燦さんら中国人コーチについていたことから、メディアは「日本生まれの中国育ち」と評している。
二〇〇五年四月二十三日、中国で開催された第四十八回世界卓球選手権に出場する前日、福原さんは駐日中国大使館を訪れ、王毅大使を表敬訪問し、中国のコーチたちによる長年の指導に感謝の意を表した。その日、福原さんはわざわざ中日両国の国旗がプリントされたスポーツウェアを着て、さらに自分が書いた「中日友好」の四文字を記者会見に持参した。機転が利く彼女は中国の卓球ファンにちょっとしたお願いがある、と話し始めた。「中国の観客のみなさんには中国チームを応援してほしいけれど、私にもちょっと拍手をくださいね」
世界選手権女子シングルで、福原さんがサーブをすると、カメラマンは一斉に彼女にピントを合わせ、シャッターを切った。福原さんがスマッシュを決めると、中国の観衆はひときわ大きな拍手と喝采を送り、「磁娃娃」を応援した。
もっと青少年交流に全力を
長い間、中日両国政府は一貫して若い世代の相互理解と感情の育成を重要視してきた。2007年、温家宝総理は福田康夫首相と会談した際、2008年を「中日青少年友好交流年」とすることで合意した。中日双方が2008年から、4年連続、毎年合計4000人規模の青少年交流を実現しようというものだった。
「不可解さ」解消しよう
一九八〇年代に行われた「中日青少年友好交歓活動」は、両国青年が長い間先方の国に抱いていた「不可解さ」の解消に突破口を開いた。日本のテレビドラマが人気を呼び、上海の青年の間では「日本語学習ブーム」が巻き起こった。
一九八四年の「中日青少年友好交歓活動」の後継活動として、二十三年の時間を経て、二〇〇七年六月十四日、中曽根康弘元首相が率いる日中青年世代友好代表団が、五便に分乗して上海浦東国際空港に到着し、一週間にわたる「青年世代友好の旅」に出発した。代表団は一九八四年の「中日青少年友好交歓活動」に参加した日本側代表とその子どもたちのほか、国会議員、友好団体代表、友好人士を含む二百人余りからなっていた。最高齢は八十九歳、最年少は十三歳。メンバーの中には、中国人によく知られているテレビドラマ『おしん』で子供時代のおしんを演じた小林綾子さんと、映画『君よ憤怒の川を渉れ』で真由美を演じた中野良子さんらも参加した。
八十五歳の鈴木重郎さんは、生涯を通して日中友好事業に力を尽くしてきたが、彼は一九五四年に世界民主青年同盟大会に参加するために、初めて中国を訪問した当時の情景をよく覚えていた。「毛主席はぼくが農民だと知ると、しっかりと僕の手を握り、またしっかりと抱きしめてくれましたよ」と、懐かしそうに語っていた。
災難で伝わる思いやり
「遠い親戚より近くの他人」ということわざがある。四川汶川大地震と東日本大震災は、両国の人々に深刻な災難をもたらした。一衣帯水の隣国として、中日両国の国民は、惜しみない援助の手を差し伸べ、互いに助け合い、民族と文化の限界を超えた人道主義的な思いやりを発揮した。
中国救援隊が大船渡へ
二〇一一年三月十一日、東日本でM9.0の巨大地震とそれによる巨大津波が発生した。世界中を驚愕させた大災害だった。中国政府は災害発生直後に中国国際救援隊を急派し、また三月十三日早朝、急きょ日本に飛び、被災地に駆けつけ、人道主義的な救援活動を実施した。
十五人の救援隊員は直ちに自衛隊機で被災が最も深刻だった岩手県大船渡市に急行した。被災地では余震が頻発し、津波警報·注意報が絶えず発令され、放射能汚染も深刻だった。しかし、中国隊の隊員たちは危険を顧みず、全力で緊急の捜索·救助活動に取り組んだ。
救援隊を率いた尹光輝さんは「われわれは毎日十一時間以上も救援活動を行いました。連日、睡眠不足が続きました。現地への道を急ぎ、テントを設営し、環境に適応しなければなりませんから、一日平均三時間しか寝られませんでした」と振り返る。
八日間にわたる救援活動中、中国隊は現地の消防署と手を携えて協力し、四平方㌔の被災地域で捜索活動を行い、百四十カ所余りの工場、作業場、車両を含む重点的な廃墟を対象に、綿密な捜索を行った。通常の救援活動のほかに、中国隊は被災民のテント張りや物資の輸送、車両の交通整理などを手伝った。多くの現地の日本人は覚えている中国語で隊員たちに「你好(こんにちは)」「谢谢(ありがとう)」と声を掛けてくれたそうだ。
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