1953年~2023年
1953年10月1日に北京の天安門広場で行われた国慶節の大行進には、中国人民が平和を迎えた喜びと新中国建設のために奮闘する熱意があふれている(1953年第6号)こちらから全文閲覧ができます!
1954年にまだ建設中だった武漢長江大橋は、新中国が戦争の傷を癒やす中で「天塹変通途」(長江という天然の堀を道に変える)という雄大な志を成し遂げた(1954年第8号) こちらから全文閲覧ができます!
1954年12月、平均標高3000㍍以上の西康・チベット自動車道路が開通し、不便だったチベットの交通状況を劇的に変え、チベット高原の経済と文化の発展に有利な環境をつくった(1955年第1号) こちらから全文閲覧ができます!
1956年6月、中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷は第2次世界大戦中に中国でさまざまな残虐な罪を犯した日本の戦犯への裁判を行った。これらの戦犯たちは思想改造後、大多数が心から悔い改めて更生し、中日友好事業の重要な一員になった(1956年第8号) こちらから全文閲覧ができます!
1957年6月、中華全国総工会が組織した登山隊が四川省にある標高7590㍍のガンガ(貢嘎)山に登頂し、中国登山史の新たな章を開き、高い目標に果敢に挑む中国人民の精神を示した(1957年第9号) こちらから全文閲覧ができます!
1958年、中国人民志願軍は朝鮮から帰国した。新中国は勢いよく前進する平和建設の時代に入った(1958年第12号) こちらから全文閲覧ができます!
1959年に上映された『林則徐』をはじめとするハイクオリティーな映画は、新中国の映画産業の進歩を反映している。新中国の映画産業は急成長し、中日映画交流もこの時期から始まった(1959年第11号) こちらから全文閲覧ができます
本誌は創刊後、多くの著名人の寄稿を掲載した。これは中国の有名な劇作家で国歌の作詞者田漢が、1960年の日本新劇団の訪中公演について書いた特別掲載記事(1960年第12号) こちらから全文閲覧ができます
1961年4月、新中国で初めて開催した世界大会となる第26回世界卓球選手権大会が北京で開かれた。数年後、中国は「ピンポン外交」を展開し、「小さな玉」が「大きな玉(地球)」を動かす初の快挙を成し遂げた(1961年第6号) こちらから全文閲覧ができます
1962年、日中友好協会訪中団が湖南省で行われた座談会で中国側の参加者と語り合った。この時期に両国の民間交流は幅広く展開され、「民をもって官を促す」方針の下、中日関係が絶えず前進するのを推し進める重要な役目を果たした(1962年第8号) こちらから全文閲覧ができます
1963年10月、LT貿易の進展という背景の下、日本工業展覧会が北京で開催し、両国の経済貿易交流の推進に大きな手本を示した(1963年第12号) こちらから全文閲覧ができます
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