1953年~2023年
当時の国民経済の成長に合わせるため、上海ではカラーテレビ、電子機器、石油化学製品などの新型工業部門が創設され、中国の工業建設の歩みをさらに早めた。写真は上海工作機械の工場で研削盤を試運転する技術者と作業員(1974年10月号)こちらから全文閲覧ができます
中日の国交正常化後、40人からなる日本の野球・ソフトボール代表団が1975年8月に初めて訪中し、上海、西安、北京などで中国のスポーツ関係者と技術交流を行い、友好を深めた(1975年12月号) こちらから全文閲覧ができます
本誌カメラマンのレンズが収めた、新疆ウイグル自治区の人々が独特な民族楽器を演奏しながら素晴らしい生活を謳歌する様子(1976年2月号) こちらから全文閲覧
1976年の秋うらら、解放感でいっぱいになりながら「四人組」の打倒を祝う北京の人々。ここから国家建設と社会秩序、そして人民の生産・生活が元通りになった(1977年1月号) こちらから全文閲覧ができます
1977年、中国は高考(全国統一大学入試)を復活させ、社会主義改革開放と現代化建設のために優秀な人材を育成し、10年間の動乱で教育の機会を一時失った大勢の若者が大学へ再び進学する夢をかなえた(1978年7月号) こちらから全文閲覧ができます
1978年8月に北京で締結された「中日平和友好条約」は、中日の平和共存、発展と繁栄の基礎を打ち立て、東アジアの平和と冷戦構造の終結に貢献を果たし、両国が政治、経済、文化、科学技術などの分野の交流を幅広く進められるようにした(1979年1月号) こちらから全文閲覧ができます
改革開放は春の訪れを告げた。北京首都国際空港の壁画が従来の芸術様式のものから変わったのは、当時の中国社会に起こっていた新しい流行の表れだ(1980年2月号)
本誌は中国社会のリアルな日常を捉えることを重んじ、「ありのまま」の社会生活に目を向けるという独自の撮影の美学を徐々に形成した。写真は本誌カメラマンが撮影した雨に降られる北京市民(1981年6月号)
1982年3月、本誌記者は中国最北端の駅がある満洲里でSL列車に乗り、中国大陸を縦断する鉄道の旅を始め、当時の鉄道車内の人々の様子を捉えた(1982年9月号) こちらから全文閲覧ができます